あの子が死んだよ
 あの子が死んでしまったよ
 末のいもうとひめ、死んでしまったよ

 小さくはじける、泡が囁く。

「そんな…!」
「ああ、あの子はあんなに想ってたのに…」
「なんてひどい」
「ひどすぎるわ」
「かわいそうに…!」

 ばらばらの短い髪を振り乱し、姉姫達は泣きわめいた。

「ゆるせない」
「ゆるせない」
「ゆるせない、陸の王子…!」

 姉姫達の悲しみは見る間に怒りへ変わっていく。泡はおびえて震えた。

 そしてその輪を、少し離れたところから冷ややかに見つめる人魚姫がいた。
 その髪は美しく、長く、かすかな海流にゆられて緩やかにたなびいていた。

 彼女は、復讐に猛る妹姫達を残し、一人その場を離れていく。

―馬鹿な妹。
 馬鹿な妹たち。
 わかりきっていたことなのに。
 陸の息子と海の娘が、わかりあえるはずがなかったのに―

 その夜、人間達は、これまで経験したことのない程の嵐の中に、美しい歌声を聞いた。


うみとりくのうた


【前編】


 あれから少し時間は流れて。
 妹たちの髪も、肩に届くぐらいには長くなったころ。
 …事態はもっとくだらなくなっていた。

 人魚姫の長姉はため息をつく。

「まぁまぁまぁ!なんて繊細な金細工」
「あ!それは私が目をつけてたんですのよ」
「見て見て、すごい大きいエメラルド!」

 きゃあきゃあと、あの子たちが何をしているかといえば『戦利品』漁りだ。
 最初に怒りのままに嵐を起こして、ひっくり返したのが貿易船か何かだったらしく。
 荷の中の、金銀宝石類が海の中に沈んできた。
 陸でしか取れない宝石、陸の職人達が細工の業を惜しげもなくふるった美しい装飾品の数々。
 …それにあの子達は魅せられ、味をしめてしまったらしい。
 あの子たちが歌うのはもう、末の妹のためなんかじゃなく、きらびやかな財宝のためだ。
 タテマエの上ではまだ、陸の息子達への復讐だと言っているけれど…そうは見えない。まったく見えない。海の娘としての誇りはどこへ忘れてきたのか。

「姉様もどれかいかが?この髪飾りなんてどうかしら」

二番目の妹が、私に一本の髪飾りを差し出す。宝石をちりばめた銀細工が、しゃらんと揺れる。

「いらない」
「そう?」

苦笑いしてそれっきり、彼女はまた財宝の輪に戻って行く。

『姉様って何を考えてるかわからないわ』
『何も感じてなんかいないんじゃないの、あの子のときにも結局姉様は、何もしなかったんだもの』
『冷たすぎるわよね』
『姉様は海の娘じゃなくて、氷の娘なんじゃないの?…』

 くだらない。

 長姉の姫は、鰭を返して泳ぎだした。
 高い高い声で、かすかに彼女は歌う。
 すると彼方から、一頭のイルカが泳いできた。この辺りでは一番年上の、一番賢い白イルカだ。
「クレス、今日はどこまで泳ごうか?」
甘えるように、白イルカは鼻を鳴らした。
ほんのわずかに笑みを浮かべて、長姉の姫は白イルカの背を撫でる。
そして、きらきらと輝く真昼の海面近くへと、彼女たちは泳いでいった。


 若イルカたちがぱしゃぱしゃと、競うように跳ねる。
 白イルカは悠然とその尾をしならせて、ひときわ大きくきれいな弧を描いた。
 イルカは優雅でありながら、相当なスピードで泳いでいく。
 それと競い、戯れるように泳ぐのが長姉の姫は好きだった。
 聞こえるのはただイルカと波の声だけ、見えるのはただ海と光だけ。
 わずらわしいものなど何もない、世界の一番きれいなところだけを見られる気がして好きだった。
 しかし今日はそこに、無粋に割り込んでくるものがあった。

「ゎあれらぁが〜母なる、あぉうなばら〜よ♪」

 …そんなことは物理的にありえないわけだが、転ぶかと思った。水中で。
「な、な…?」
 なんだこの、すごい歌は。
 長姉は久しぶりに、海面に顔を出してみた。
 思ったよりは遠くにいる、一艘の小さな漁船。そこで櫂をこぎながら、上機嫌で歌う男がいた。
 その声は力強く、よく通っているんだけれど…だけれども、あまりにも、ひどすぎる。
 音程がずれているというか、歪んでいるというか。すっとんきょうに高くなったり低くなったり、ミミズを泥酔させてからのたくらせたような、珍妙なメロディーだった。
 しかも訛ってるか何かなのか、変なところに変に力を入れて歌うものだから、よりいっそう歌が歪みに歪んで、悪酔いしそうなぐらいにぐちゃぐちゃだった。
 …きっと誰にも真似できない、ある意味見事かもしれない、そんな空前絶後の音痴だった。

 あまりのすごさに長姉は呆気にとられていたが、だんだん苛々してきた。
 なんだその歌い方は。なんだその音程は。なんだそのアクセントは!
 詩が二巡目ぐらいに入って、ようやくなかなかに荘厳な海の賛歌であることが聞き取れてきたが、はっきり言って台無しだ。一巡目では何を歌っているかすらまったくわからない。むしろそれはどこの言葉だというレベルで。
 そこはきっとこうだ、あそこはきっとああだ、ここをこう直したらマトモに…

「我らが母なる、青海原よ―」

 青年は櫂をこぐ手を止めた。
 それはとても澄んだ、きれいな歌声だった。
 それに聞き惚れたのもつかの間…
「お?わ、うわわっ!?」

 ばっしゃぁん!

「あ」

 突如起こった大波が小さな船を飲み込んで、長姉はようやく我に返った。

「……」

 やっちゃった。
 面倒なことになった、というのが率直な思いだったのだけれども、ここでほったらかして帰ったら妹たちと一緒だ。
 ため息をついて、長姉は青年を助けに行った。


「…うへぁ?」
「気がついた?」
男はぼんやりした頭で目をぱちくりさせた。
 気がついたら自分は、大きなイルカの背中に乗っかっていた。
 そして別の白いイルカの背中にもう一人。
 一人、というべきなのだろうか。
 それは、とても美しい人だった。抜けるような白い肌に、月の光を紡いだような金髪。瞳は浅瀬の海の色で、どこまでも透き通っていて。そして腰から下は、虹色の鱗に覆われた魚の半身だった。
 それはまさしくおとぎ話のような。
「人魚姫…」
「そう。私は海の娘だ」
淡々と彼女は告げた。
「すまない、あまりに軽率だった」
「何が?」
「ついうっかり歌ってしまった。聞いてられなくて」
「あ、」
大波に飲み込まれる前に聞こえた、あのきれいな
「あの歌は君が?」
「そう。」
「じゃ、じゃあさ!」
つい身を乗り出したら、ずるりと滑ってまた海に落ちかけた。イルカの背中なんて初めて乗るからわからなかったが、意外にぬめっている。どうにかこうにか体勢を立て直して、青年は言った。
「もう一回!もう一回歌ってくれないか!?」
人魚姫は小さな驚きを顔に浮かべた、しかしすぐにそれは冷淡で皮肉気な微笑に変化する。
「わかってないのか?あの大波を起こしたのは私だ。人魚の歌は嵐を起こす。海に出る人間なら知ってると思っていたが」
それゆえに長く、人魚は美しい声を持ちながら歌わなかった。妹姫達は、末の妹の復讐のために歌うことにした。その気はなくても、うっかり口ずさんだだけでも、人魚の歌は海を動かす。
 妹姫達の行いのせいで、人魚の歌の力は陸の人間達に知れ渡っていた。
 そして自分自身、この青年はその被害を被った。にもかかわらず、
「まぁ確かにさっきはびっくりしたけどさ…でも、」
目を輝かせて彼は、
「あんなにきれいな歌は俺、初めて聞いた!」
まっすぐにこちらを見つめる。
「……馬鹿。」
ふいと目を逸らして、人魚姫は白イルカの背から降りた。
「その子が入江の近くまでは送ってくれる。そこから先は自力で頑張って泳げ、浅瀬まで行くとその子が座礁するから無理」
「そういえば、俺の船は?」
「さっきのうっかりで。」
…よく見れば、近くにまっぷたつになった船がひっくり返っていた。これは…帰ったら雷だな。
 イルカがゆっくりと旋回し、人魚姫に背を向ける。
 青年はまたバランスを崩しかかりながら振り返った。
「俺はオズ!君の名前はー!?」
名前。名前なんて聞かれたのはどれほどぶりだろう。
「…セイラ」
にっこりと、満面の笑みをオズは浮かべた。
「セイラ、またこの辺の海に来たら会えるよなー!?」
ぶんぶんと手を振りながら、彼は遠ざかっていく。
 どこまで無茶苦茶な。
「…お前が来るなら、私が来ない。」
 陸の息子になんて、近づかない方がいいんだ。私たちはあまりに違いすぎる。
 馬鹿ないもうと、なんでわかりあえるなんて思ったのか。
 …どのみち、この広い海でまた会うなんてことはないだろうけれど…


 ないはずだろう。
「セイラー!」
 ありえない。
「あ、いたいた、セーイラ!」
 …なんでこう、たびたび私を見つけられるんだ!?
 見つけられるたびに海中に潜り逃げる、というのにも飽きて、私はオズに直接聞いてみた。
「愛の力で!」
「…ロタール、グレン、沈めてしまえ」
「わわわ、わかったって真面目に答えるから!」
それできゅい、と鳴いてイルカたちも船を鼻先でつつくのをやめる。いつの間にか若いイルカはオズになついていた。
「本当のところはこいつらだよ。セイラ、いつもイルカと一緒だろ?だから、イルカの群見つけたらとりあえず行ってみてるわけ」
……ああ。あまりに当たり前で盲点だった。そうか、確かにイルカが跳ねるのは遠くからでもいい目印になってしまっているかもしれない。
 それにしても。
「お前は人魚が怖くはないの?」
今や人魚は、海を嵐に変えて船を沈めるバケモノだ。陸の人間は、海では無力。ただ船をひっくり返されただけで溺れて死んでしまう。私だって、ほんの数小節歌うだけでまた大波を起こして、簡単にオズを殺せるのに。
 何度聞いたかわからない。
 そのたびに、オズはにこにこと笑って答える。
「怖いわけないさ」
馬鹿みたいににこにこして。
「だってセイラは優しいじゃないか」
にこにこにこにこ。
「……」
「あ、待って」
呆れて帰ろうとする私を、珍しくオズが呼び止める。
「何?」
「これ」
そう言って彼が差し出したのは、木彫り細工のペンダントだった。小さな小さな、小指の爪ほどの、水色の石がはめられている。
「君に。」
「私に?」
「俺が彫ったんだ。ほら、ここんとことか工夫したんだよ」
意外に器用、ということもなく。ああ、なるほどなと思うような、子供の工作のような細工だった。試行錯誤の跡なんて、こんなにはっきり見えちゃいけないだろう。
「いかにも、オズらしいわね」
「え、そう?」
どうとらえたのか、オズは赤くなって照れる。私はくすりと小さく笑って、そのペンダントをつけた。
 私も私で、最初から海面近くなんて泳がなければ、こう何度も会いはしないだろう。けれど、これは私の数少ない趣味で。だから結果として、私たちは思ったより何度も何度も会うことになった。


 小さな泡が、ざわめいている。

 陸の子たち、怒っている。
 怒っているよ。
 こわいことを考えてるよ。
 よくないよ。
 よくない…
   
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