馬鹿なことだ、と思った。
わかりあえるわけはないのに。

馬鹿なことを、と思った。
あの子はもう死んだのに。

馬鹿なことだ、と思っている。
なのに。


うみとりくのうた

【中編】


 白い白い月が見下ろしていた。
 風も穏やかな、静かな夜だった。
 泡たちだけがざわめいていた。
 こわい、こわいと囁きあっていた。
水のあるところ全てを知る、儚い存在だけが、これから起こることを知っていた。


「…またか」
 遠出から帰ってきてみれば、いもうとたちはみんな出払っていた。宝物は広げられっぱなし。陸にしかない宝石を、魚が珍しそうにつついていた。
「せめて片付けてから行きなさいよ、まったく…」
うんざりと呟いてみるが、勝手に動かして文句を言われるのも馬鹿らしい。セイラはいつもの岩に腰掛けて、ただ溜息をついた。
 いもうとたちは、また『上』に歌いに行ったのだろう。こわがりな泡たちがまた怯えて、ざわめいていた。

 こわいよ、駄目だよ。たいへんなことになるよ…


 大きな船が、ゆっくりと進んでいく。
「…来ますかね」
 固い声で、まだ若い男が呟いた。
「来るさ」
 壮年の男は、ただ暗い海面を見つめている。
「このあたりでいくつも沈められている。これだけ大きな船だ、見落とすこともあるまい」
 甲板にぽつりぽつりと立っている男達は、みな厳しい顔をしていた。彼らは船乗りにしては立派で、商人にしてはかっちりした服を着込んでいる。そして、じっと待っていた。彼らの敵を。
 波の寄せる音さえも静かに、沈黙が降り積もる。
 どれだけそうやって待ったことか。今日は現れないのではないかと、彼らが焦れはじめた頃。海風に乗って歌声が響いてきた。
「―ようこそ我らの海へ、愚かな陸の子よ―」
 それは海の化け物というにはあまりにも美しく。一瞬でもそれに心を奪われてしまったのが彼らの敗因だった。
「隊長!」
 はっとして彼は号令をかける。
「総員、作戦を開始せよ!」
 だがわずかに遅かった。あれほど静かだった海はにわかに荒れ、大波が船を揺らす。何かにつかまらなければその場にとどまることも難しいほどに。それでも役目を果たそうとした男は、足をとられて、悲鳴を上げながら甲板をごろごろと転がっていった。
 波は絶え間なく船にぶつかり、立派な船もきしみをあげる。不吉な大音響の中で、人魚姫たちの歌は何故かかきけされることなく彼らの耳に響き続けていた。のびやかに、美しく、残酷に、無邪気に、わらうように。
 …作戦は失敗。脱出さえも不可能。自分たちはこのまま船と心中する羽目になるだろう。
「…しかし。どのみちお前たちの負けだ人魚ども…」
 この船が沈めば、結果は同じ。違うのは彼らの生死だけ。結末を悟った軍人達は、誰からともなく笑い始めた。あざけりと恐怖のないまぜになった狂った笑い声は、大波の崩れ落ちる音にかき消された。
 夜の海は真っ黒で、深い深い闇のよう。
 どぉん、と大きな音を立てて波がぶつかり、体が放り出される。
 為す術もなく、真っ暗な中落ちていく。
 飲み込まれる寸前に、一人の男は吐き捨てた。

「死ね、化物」



 高く、高く笛のような声を上げて、海を切り裂くように白イルカのクレスは突進してきた。
「クレス?一体どうし―」
いつにないその様子に目を丸くして、どうしたの、とセイラが聞くのも待たず。クレスは彼女の腕をくわえ、猛然と泳ぎ始めた。
「クレス!?何を…!」
肩が抜けそうな勢いでひきずられてセイラは苦鳴をあげる。それでもクレスは止まろうとしない。気付けば、グレン、ロタール…他のイルカたちも、一心に泳いでいた。魚たちも。まるで何かに追われているような必死さで。

 陸の子、たいへんなことをしたよ。

 さざめく泡が、ぽつりと呟いた。ざわざわ、ざわざわと、口々に、言葉足らずに何が起こったのかを話していく。

 こわいことをした。
 ひどいことをした。
 たくさんの毒をひっくりかえした。
 おおきな船に、毒をみたして。

 さぁっと、血の気が引くのをセイラは感じた。

 陸の子も、しずんで死んだ。
 いもうとたち、みんな…

 ずきり、と腕に痛みが走る。それでも、セイラはクレスをふりほどこうと暴れた。「…っ、離して、クレス!行かなきゃ、私、行かなきゃ…」
ずきずきと、下手に動いたものだから、クレスの歯が食い込んで痛む。でも、たとえこの腕がちぎれても行かなきゃと思うのに、がっちりとくわえられた腕は離れない。
「”…セイラ”」
 悲しげにグレンは鳴いた。
「”…もう”」

 いもうとたちみんな、死んでしまったよ。

「”もう引き返しても間に合わない”」

 …ああ、そうだ。
 船に毒を積んで、それを沈めたのなら。
 いつものようにそのすぐそばにいたはずのいもうとたちは、真っ先に。
 馬鹿ないもうとたち。
 陸の子たちがいつまでもやられたままでいると思ったの?
 いつか、こんな結末が来るのもあたりまえで…
 でも。
 でも。
 でも。

「…嫌」
セイラはゆるゆるとかぶりをふった。
「いやあぁー!!」

 私のいもうと。
 私のいもうとたち。

 セイラは、渾身の力でクレスの顔を引っ掻いた。ほんのわずかクレスがひるんだ隙に、腕を振り払い、元来た方向に泳ぎだす。妹たちの名前を叫びながら。
 水はかすかに、苦い香りがした。







 その朝。港には異様な人だかりが出来ていた。
「ん、なんだなんだ?クジラでも打ち上げられたのか?」
クジラといえば、アレもセイラたちと仲が良いんだろうか。セイラの友達のイルカは生意気なほどに頭が良いから、浜に打ち上げられるような間抜けなことにはならないだろうが。
 オズはひょいと人と人の間から、それをのぞきこんだ。
 目に飛び込んできたのは、朝日を受けてきらきらと光る、きれいな虹色。
「…え」
 きれいな虹色の、鱗。魚の尾びれの生えた人。
「ち…ちょっと!ちょっとどいて!」
オズはぐいぐいと乱暴に人をかき分けて前に出た。顔にかけられている粗末な白布を、一息にひきはがす。
 …あ。
 うつろに開かれたままの瞳は、深い蒼。
 ばらけた髪は、肩ほどの長さで波打つ、栗色。
 …ちがう。
 はあぁ、と大きく息をついて、オズはその場にへたりこむ。無意識に息を止めてしまっていたようだった。今頃になって、背中がじったりと嫌な汗で濡れてくる。
「しかし…なんなんだこれ」
 セイラでなかったことには安心したが、その人魚はひどい有様だった。
 目はわずかに血走り、舌はだらりと出たまま。浜にたどりついてなお苦しんだのか、白い肌は擦り傷まみれ、口にはわずかに血泡がついていた。
 せめて、と思って目と口を閉じてやろうとするが、既に体がこわばっていてうまくいかなかった。
 ごめんな、とオズは手を合わせ、もう一度白布で彼女の苦しげな死に顔を隠した。
「どいた、どいた。―ほら、道を開けんか」
 そのとき、やたら横柄な人払いの声が後ろから聞こえてきた。振り返ると、人垣はまるで見えない絨毯を引いたように割れ、その真ん中を堂々と歩いてくる男達がいた。立派な服を着た貴族の男、その後ろに控えるように二人の軍人。じろり、と人払いをしていた男ににらまれて、オズも慌ててその場を開ける。
 男は、何か汚らわしいものでも見るように…いや、それよりももっともっと冷たい目で、人魚の遺体を見下ろした。
「浜に打ち上げられたというのはこれだけか?」
「はい」
「ふむ。…まぁそれだけでも僥倖と見るべきか。運べ」
それだけ言って貴族の男はくるりと背を向ける。軍人達は、真っ白な担架に人魚をてきぱきと乗せ、持ち上げた。
「あ、あの…」
 持ち上げるときの動きで、布がまたぱさりと落ちて。そんなことには、彼らはまったく頓着する様子はない。
「彼女を、どこへ?」
 うるさそうに足を止め、それでも彼は答えた。
「学者のところだ」
「…は?」
 学者?
「東洋の方では人魚というのはかなり興味を持たれているそうでな。なんでも、不老不死に至る薬の材料にさえなるのだそうだ」
 なんだそれ。
 なんだそれ。
 なんだそれ。
「…やめろよ!」
 オズは、人魚の遺体を取り返そうとした。相手が貴族だとか、軍人だとか、そんなことは頭からふっとんでいた。
 ただ、モノとして扱われていく彼女があまりにもかわいそうで。
 しかし、手が届くずっと前に、誰かの手がオズの頭を殴った。
「何やってる!」
「…親父!だって…」
「だってじゃない!」
オズの父親は、そのままオズの頭を押さえつけて跪かせた。
「申し訳ありません!愚息が失礼なことを…何やらさっきから動転しているようで」
「親父…」
「黙れ!…申し訳ありません!」
さらにぐいと、地面に頭を叩きつけようとしているかのような勢いで、オズの父親は彼を押さえつける。ぼそぼそとオズの父親はささやきかけた。
「何があったか知らねぇが。馬鹿なことをするんじゃねぇ。貴族様のすることだ、どうしようもねぇよ…」
「……っ」
オズは強く強く、奥歯を噛みしめた。
 彼らはオズ達を冷たく見下ろしていたが、ふいと何も言わずに踵を返した。靴音を鳴らし、遠ざかっていく。遠ざかっていく。
「…ごめん」
絞り出すように、オズは呟いた。
「…ひどいことをするもんじゃ」
海の遠くを見つめながら一人の老人が呟いた。
「聞くところじゃあ、囮の船に毒を盛ってばらまいたんだと。」
「無茶苦茶しやがる。あの辺は魚獲り場でもあるんだぞ。魚もどんだけ死んだことか」
貴族達の影も消えたのを確認して、漁師の一人も悪態をつく。
「さて、それだけで済めばいいがの…」
 海は、前夜の惨劇をみじんもうかがわせない、いつもの青だった。
 しかし港を覗き込めば、白い腹を晒して浮かんでいる魚が何匹も流れ着いていた。
 風は凪ぎ、弱々しく寄せては返す波はほとんど音がしない。
 海が死んでしまったような気さえした。
「…セイラ…」
オズは、海の彼方を見つめて呟いた。





 …痛い。
 ずきずきと肩が。
 重く鈍く頭が。
「…う……」
 ゆるゆると瞼を開こうとすると、刺すような光が目に入ってきた。
 思わずぎゅっと固く目をつぶり、おそるおそる開けば、そこには海を通さない陽光が降り注いでいた。
 空は抜けるように青く、太陽はもう高くのぼっている。
 肌にはざらりとした感触。そこは、どこかの砂浜だった。
「どうして、こんなところに…」
 セイラはゆっくりと体を起こすと、辺りを見回した。そして、後ろのそれに気がついて、ふらついていた頭が一気に醒める。
「…クレス!!」
波打ち際、大きく砂浜に乗り上げて、白イルカは体全体で息をしていた。
「そん…な、なんで…!」
ずり、ずりと砂浜の上を這って、セイラはクレスに手を伸ばす。
 まだ、まだ生きてる。でもどうすればいい?自分の力じゃ、こんなに大きくて重たいクレスの体なんて動かせない。
 そうだ、歌。歌って大きな波でも起こしたら、その勢いで海に…そうすれば、まだどうとでも手はある。歌、歌を…
 セイラは口を開く。しかし、声はまるで喉に貼り付いて引っかかってしまっているようで、どんな旋律も形になりはしない。
 どうして。どうして。どうして。
 波はただ穏やかに寄せては引くばかりで。
 クレスは、濡れた黒曜石のような目をわずかに開いて、優しく鳴いた。
 その瞼が緩やかに下りて、苦しげな息が少しずつ静かに、弱くなっていく。
「や…だ、いや、クレス!クレス!!」
 セイラは必死に、クレスの体を揺さぶろうとする。しかしほんのわずかも動きはしない。
 傷だらけの、白く大きな体にすがりついてセイラは泣いた。


 馬鹿なことだ、と思っていた。
 馬鹿なことを、と思っていた。
 陸の子を愛したいもうとも。
 陸の子を殺したいもうとたちも。
 わかりあえるはずはないと、最初からわかっていたのに。
 なのに、しょうのないいもうとたち。
 だから私は、何もしなかった。
 冷ややかにふてくされて、傍観しているだけだった。

 その報いが、これだ。

 誰もいない。
 もしかしたら、とそれでも思って海底に戻ってきてみても、そこには誰一人として帰ってきてはいなかった。
 海の上からさしこむ光が、弱々しくいもうとたちの宝物を光らせていた。
「…ソフィー」
 これは、あの子が気に入っていたネックレス。
「イレーヌ。ミレイア…」
ひとりひとり、その名前を呼んでみる。
 泡の囁きさえもなく、海は静かで静かで、耳が痛くなりそうだった。
「…メリル…」
セイラは、手に顔を埋める。
「…ごめんなさい」

 一番の馬鹿は、私だ。

 …チリ。

 セイラは弾かれたように顔を上げる。
 海に、大きな感情がひびいていく。
 怒り。怒り。とても大きな怒り。
 泡よりももっともっと大きな存在が、海を怒りに染め上げていく。
「やめてください父様!そんなことをして何になるというの!!」
 セイラは海に絶叫する。
 しかしそれに応えるものは誰も居なく、言葉は虚しく水に溶けていった。

 …そんなことは間違っていると、何故みんなわからないの。
 腹いせに何人陸の子を殺したって、死んだいもうとたちは帰ってこない。
 そんなのはとてもとても愚かなことなのに。

 …それもしょうがない、当然の報いなのだろう、とどこかで思う。
 父様の怒りに触れてしまったなら、引き起こされる嵐は、あの子たちの歌の比じゃないだろう。
 きっとたくさんの陸の子が殺されて。
 その生き残りがまた復讐に来るだろうか。
 そしてどちらかが完全に息絶えるまで、こうなったらもう止まれないだろう。
 もう、どうしようもない。
 もうしかたがない…。

 ぶんぶんとセイラは頭を振った。
 もう、同じ間違いはしない。
「まだ…まだ、どうしようもなくなんかない…!」
 もう、同じ後悔はしない。
 セイラは、ぎゅっと手を握りしめた。

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