海はまだ沈黙を守っていた。
 やがて訪れるその瞬間まで、怒りを抑えて押し黙っているかのように、静まりかえっていた。

 にぃ、と口元を引き上げて老婆は笑った。その口から出てきたのは、およそ似合いもしない、鈴を鳴らすような可愛らしい少女の声。
「おやおや、これはこれは」
 くつくつと喉の奥で笑って、海の魔女は突然の来訪者を眺め回した。
「ようこそ、一番賢いお姉様。一体何をお求めで?」
 セイラは、真っ直ぐに魔女の目を見返して言った。
「人の足を得る薬はまだある?」



うみとりくのうた

【後編】



「はいはい、ございますとも」
 背を丸めて魔女はごそごそと棚を探り、一本の小瓶を取り出した。それは、想像していたよりもずっと綺麗なものだった。薄青い硝子の中、透明な薬が満たされている。…もっとこう、どろどろした毒々しいものを想像していたのだが。まぁ、そんなものでなくて良かった。飲むときにためらいが起きなさそうで。
 手を伸ばしかけたセイラを魔女は制する。
「おっと、おぼえておいでだね?この薬はあなたのその美しい声とひきかえだよ」
 憶えているに決まっている。
 引き替えに手に入れた一番末のいもうとの声で、さっきからこの魔女は話しているのだから。
 しかし。
「声と引き替えにはできない」
 きっぱりと、セイラは言い切った。
 ぴくりと魔女が眉を上げる。
「これはこれは、無茶を言いなさる。姫とはいえ、相応のものと引き替えでなければ薬をあげるわけにはいかないよ。それでは泥棒ではないか」
「何もタダでよこせとは言っていないわ。声はあげられないというだけ。その代わりに、これでどうかしら?」
 セイラは、持っていた袋の中身を机の上にぶちまける。
 じゃらじゃらっ、と金属同士が重たい音をたてた。
 暗い魔女の洞でさえも、わずかな光を反射して輝く金、銀、宝石…
 それは、いもうとたちの集めに集めた宝物だった。
 こんな風に扱うのは少し申し訳なくもあったが、対価として魔女に差し出せそうなものといったらこのぐらいしかなかった。
「ふむ…ふむ」
 魔女はためすすがめつ、宝石を手にとって品定めする。
「ほうほう。確かにねぇ、いもうと姫たちが夢中になっただけはある。
 しかしこれじゃあすこぅし足りないねぇ」
 ぎらり、と蛇のように目を光らせて魔女は言った。
 やはりそう来るか、とは思った。
 人間の足を手に入れる薬、なんてものがこのぐらいでつりあいはしないだろう。
 だが、それでも私は陸に行かなければ。声を持ったままで。
 冷たい目でセイラは魔女を見返す。
「私のいもうとの品を値踏みするとは、たいした強欲ぶりね」
「いえいえ、相応のものを求めているだけだよ姉姫」
「私の髪か?…それとも、声でなければつりあわないというのか」
 にやにやと魔女は笑う。
 …時間もない。
「そうね、髪ぐらいならあげても良いけれど、それでも足りないというなら」
 セイラは、目に付いた棚から一本の薬瓶を手にとると、ゆらゆらと揺らした。
「…今ならまだ、これ一本で許してあげるわ」
 そう言ってセイラは、その瓶を思い切り床へと叩きつけた。
 かしゃん、と音がしてあっけなく瓶は粉々、中に入っていた液体が辺りに溶ける。何の薬だか、知ったことか。
 かちゃかちゃと、手早くさらに何本かの瓶を抱え込む。
「まだ薬を渡さないというならもう一つ」
 魔女に向かい、にっこりとセイラは笑ってみせた。
「あまり海の娘の長姉を侮るな、魔女」



 人目のない浜の外れで、セイラは小瓶の蓋を開けた。小さく一度だけ深呼吸してから、その中身を一息に呷る。
 すると、その尾は二つに分かれ、鱗が次々とはがれ落ち、見る間に爪先まで完璧な二本の人間の足へと姿を変えた。
「…行こう」
 ばさり、とローブを身に纏ってセイラは立ち上がり、一歩を踏み出した。
「……っ!」
 一歩、たったの一歩だというのに足から電流のように走る痛みに、セイラはバランスを崩しかける。
「…よくこれに耐えたわね、あの甘えっ子が…」
 それほどあのときのあの子の覚悟は強かったということだろう。
 一足毎の針を刺すような痛みは副作用だから諦めなさい、と魔女は軽く言ってのけたが、これは針を刺すような、ではなく針束を突き刺すような、だ。
 ああ、などと現実逃避してる場合じゃない。
 大丈夫、そのうち慣れる。耐えられる。
 セイラは顔を上げて、ゆっくりと歩き出した。


 ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。
 間延びした拍手が洞に響いた。
「いやぁ、おみごとおみごと」
「な…」
セイラは思わず呆気にとられてしまったが、慌てて魔女を冷たく睨みなおす。
「だ、だからそうやって私を侮辱するのもたいがいに…」
「まぁまぁ、もうそれはその辺に置きなされ。
 手が。震えておいでだよ、姉姫」
セイラははっと息をのむ。そして何か言おうと口を開いただけで閉じ、ゆるゆると手を下ろした。
 からからと愉快そうに魔女は笑った。
「そうしゅんとなさんな、賢くて臆病な姉姫。なかなかがんばったじゃないか」
 賢いゆえに臆病な姉姫。このような立ち回りも、おそらくこれからやろうとしていることも、愚かで無謀でこわいから、今までならやろうともせずに諦めただろう。
 確かに、馬鹿で。
 でもそんな蛮勇が、魔女は嫌いではなかった。
 だからあの時、末のいもうとにも手を貸したのだ。
 あの子はもっと馬鹿だったから、真っ直ぐ前しか見ていなかったものだが。
 悪戯のばれた子供のように、居心地悪そうにセイラは目を逸らす。
 くだんの薬の瓶を軽くもてあそびながら、魔女はくつくつと笑った。
「いいだろう、この薬持っていくがいい。その勇気と恋心に免じてね。」
「…え」
 勇気と、何?
 頭に言葉の意味が染み渡るまで一拍。
「い…いやちがう、そうじゃなくて!私はただ、この無意味な復讐の連鎖を、海の娘の長姉として止めるために…!」
「そうなのかい?けどこの薬は末のいもうとのために作ったものだから、飲んだ乙女のラヴ☆パワーでもって陸の人間の姿へと華麗なメタモルフォーゼを遂げさせるものなんだがねぇ」
「え!?いや、えーと…」
「まぁそれは流石に冗談だけど」
がちゃん。思わず手近な壺に怒りをぶつけた。壺まっぷたつ。中身は空だったのがお互いにとってせめてもの幸いだったが。
 小さく咳払いをして、セイラは魔女に向き直る。
「…与太話をしている暇はないの。ありがたくこの薬は貰っていくわ」
「待ちなされ」
再び魔女の眼差しで、老婆は語りかけた。
「ラヴパワーは冗談だが、それは間違いなくいもうとが飲んだのと同じ薬。
 尾と引き替えの足はか弱く、一足毎に針を刺すような痛みに苛まれるだろう。
 そして…」





「やっぱり今日は駄目だな」
「まったく、俺らのことなんか考えもしねぇ…」
漁師達はぶつくさと呟いていた。
 今日の漁はまったくもって不作だった。
 網を投じても上がってくるのは毒にやられた魚ばかり。
 ならば、と釣り糸を垂らしたところでやはり何の反応もなく。
 本当に、海が死んでしまったかのように。
「まぁやられちまったもんはしょうがねぇ、しばらくすりゃ毒も薄れて魚も戻ってくるだろ」
「だな」
「と思いたいけどさ…」
「坊主、若いくせに景気の悪いこと言うんじゃねぇよ」
 オズはため息をついた。
 今日は朝から、漁場の被害をはかりに船を出したり、てんやわんやだった。
 中には、どうせ仕事になりはしないと早々に見切りをつけて酒を呑みはじめている者もいた。
 自分たちもいつもより早く港に戻ってくるはめになったのだが。
 いったい昨日、どれほどの事が行われたのかと思うと薄ら寒い気分になる。
 網を手早くしまいながら、ちらちらと頭をよぎってしかたがないのはセイラのことだ。
 セイラはどうしただろうか。
 セイラが船を沈めていた人魚の一人とはとても思えない。
 しかし、あの海の状態では…
 ふるふるとオズは頭を振る。
 確かめに行こう。漁の結果を、組合長に報告したらすぐにまた船を出して…
 オズは船着き場の石段を駆け足で上がり、広場に出る。
 ざわざわと、いつもより多くの人が行き交う港。
 そこで、一人の女性が声をあげるのが聞こえた。
「―海に出ないで。海岸からできるだけ離れてください。」
 ローブのフードを目深に下ろし、その表情は伺いづらかったが、声からは必死さが感じられた。
「できれば、高台へ。嵐になります。大波が―」
げらげらと誰かが笑った。
「大波だとよ」
「嬢ちゃん、嘘ももうちょっと考えて言いな。こんなに静かな海がどうして嵐になるよ」
確かに、海はむしろ不気味なほどに静かで。嵐になるとはとうてい思えなかった。ましてや、高台に逃げなければならないほどの大波なんて聞いたことがない。
「本当です。『始まった』なら、ここはすぐ波にのまれます」
負けずに彼女は声をはりあげる。
「先触れが見えてからでは遅いんです!どうか皆さん、早く海から…」
「しつこいぞ、エセ予言者!」
ひゅっと風をきる音がした。危ない、とオズが声をかけるまもなく、小石が彼女の頭に当たった。彼女は思わず頭を押さえ、フードがぱさりと落ちた。さらりと髪が流れる。それは長い、月色の髪。
「セイラ!?」
オズは声を張り上げて駆け寄った。セイラの方でもオズの姿に気づき、目を丸くする。
「…オズ、」
何か言いかけたセイラに、オズは勢いのまま抱きついた。
「良かった!無事だったんだな、セイラ!」
その言葉はあまりにもまっすぐで、セイラは一瞬言葉を失った。
「あ、でも足?え?なんで?」
…そちらを疑問に思うのが先だろうに。ほんのかすかに笑みがこぼれる。しかしそれもすぐに真剣な表情に変わって、セイラはオズを見返した。
「それを説明してるヒマはない。あとどれぐらい猶予があるかわからないんだ、早くここから逃げないと」
「セイラ?何をそんなに焦って…」
「だから、大波が来るんだ。陸のものまでさらうぐらいの」
きれいな青緑に、ちらちらと焦りの色がよぎる。セイラが言うならそれはきっと本当なのだろうが、それをどう言ったものか、どこまで言うべきかと迷っているようだった。
「…私にはわかるんだ。父様は、陸に復讐をしようと…」
駄目だ駄目だ、それじゃ信じてもらえない。わかってもらえない。でも自分は海の娘たる人魚だから、なんてここで言ったら、なおのこと駄目だ。今、人魚というのは陸の人間の敵なんだから。オズならともかく、他の人たちには聞いてもらえない。信じてもらえるはずがない。
「…?なんだ?潮が…」
その時、一人の男がふと海を見て呟いた。
 静かに静かに、しかし早く。さあぁ、と潮が引いていく。
「始まった…!」
セイラは青ざめた顔で声を張り上げた。
「早く逃げて!大波が来る!」
 オズはとっさに、セイラの手を引いて走り出した。
 ざざあぁ、と不穏な音がする。
 遠くから青い帯が迫ってくる。
 それを見て、ようやく何人かの漁師も足を動かした。
 ずきずきと痛む足で、セイラはどうにかオズについていった。
 ちらりと後ろを振り返る。
「オズ、何かにつかまって!」
 港には、まだちらほらと海を見つめる者たちがいた。
 …間に合わない。
 セイラは唇をかみしめた。
 波が、海水が恐ろしい勢いで押し寄せる。


 げほっ、ごほっ。
 激しくセイラは咳き込んだ。
 今の自分は二本の足を持っているだけでなく、本当に人間になってしまっているようだった。溺れかけてむせかえるなんて経験、生まれて初めてだ。
「…大丈夫、オズ?」
「…うん、なんとか…」
オズも咳き込みながら、呆然と海の方を見た。
 港の広場からは、何もかもなくなっていた。
 積み上げた木箱も、人影も。
 かろうじて繋がっている船が、ゆらゆらと瓦礫の間を動いている。
「…助けられなかった…」
 セイラは、絞り出すように言った。
 海は、先ほどまでの凪が嘘のような大しけになっていた。
 あれでは、海にさらわれた者たちを助けることもままならないだろう。
 セイラは、わずかによろめきながら立ち上がる。
「オズ、他の人たちと一緒に早く高台へ」
そう言いながら、セイラは一歩海の方へ踏み出した。
 まだ終わっていない。
 先ほどのは海がそれでも見せた慈悲、最後の警告だ。
 次こそは、本気で陸を滅ぼす波が来る。
「セイラ!君は…」
 半身振り返って、セイラは言った。
「私は…私にしかできないことをする」
 その目には覚悟の光があった。
 だからオズはただ頷いた。
「ありがとう、セイラ」
「……馬鹿、まだ早いだろう」
 困ったように、かすかにセイラは微笑んだ。
 踵を返した後ろ姿に呼びかける。
「セイラ!」
 そのまま行ってしまうかと思ったが、セイラはもう一度振り返ってくれた。
「…じゃあ、また後でな!」
 他にも言いたいことはたくさんあったのだけれど、それだけ言ってオズは自分から背中を向け、走り出す。
「…ええ、必ず」
 そう呟き返して、セイラは歩き出した。


 ごうごうと波が啼く。
 逆巻いて、ぶつかって、煮え立つように、荒れ狂う。
 大きな怒りに震える何かを、陸の子でも感じられるだろう。
 一歩一歩、足を進め、セイラは港の端に立つ。
「…父様」
 大きく息を吸って、吐く。
 自分は今どんな顔をしているだろうか。
 心臓が早鐘のように打っている。
 こわくてこわくてしかたがない。
 これはきっと、ひどい裏切りだ。
 海の娘として、私はむしろ陸に仇うつべきだったかもしれない。
 最初にステラが死んだあのときに、いもうとたちと一緒に。
 ソフィーが死んだ。
 イレーヌが死んだ。
 ミレイアが死んだ。
 メリルが死んだ。
 クレスも死んでしまった。
 …それでも、私は嫌なんだ。
 もうお終いにしよう。
 陸の子だってたくさん死んだ。
 もう止めよう。
 こんなことは馬鹿げていると、どうかわかって。
 それを言えるのは、言う権利があって言う責任があるのは、ただ一人生き残った長姉の私だけ。
 ペンダントを握りこんで、祈るように指を組む。
 さぁ。
 今度こそ私は歌おう。
「―我らが父なる、青海原よ―」


 海鳴りが町まで聞こえるなんて、尋常じゃない。
 さすがに人々も、不安げな顔をしていた。
 走りながらオズは叫ぶ。
「みんな逃げろ!大波が来るぞ!」
 走る、時に戸を叩き、走り回る。
「高台へ行け!ここじゃまだ危ないんだよ!」
 そうしながら声を張り上げるものだから、これはもう肺活量との戦いだ。ふと気を抜きかけただけで、くらりと頭の芯が揺れるのを感じる。
 そんな状態だったから、急に立ちはだかった人影を避けるなんてできなかった。
 格好悪く尻餅をついて、鼻面を押さえる。
 そんなオズを呆れたように父親は見下ろした。
「何やってるんだお前は」
「親、父」
 ぜえぜえと、荒れた息を整えながら立ち上がる。
「親父も手伝ってくれ。大波が来るんだ、みんなを避難させなきゃ」
「オズ。いいから落ち着け、海が荒れてるのはわかってる、こんなとこまで来やしねぇよ」
 そう思うのが普通だろう、だからみんな不安な顔をしてもせいぜい船が流されないかの心配程度だ。
「普通の大波じゃないんだよ!高台まで逃げないと!」
 ああ、埒があかない。一人でも多くの人に知らせて、避難させなきゃならないのに。また駆け出そうとするオズだが、その腕を父親は掴んで止める。
「だから落ちつけ。朝といい、今日はどうかしてるぞ」
「どうかしてんのはこの嵐の方なんだよ!離せ、このわからず屋」
「お前、親に向かってその言い方はなんだ」
「そんなこと言ってる場合じゃ…」
「まぁ、待ちなされ」
 一人の老人が唐突に口を挟んだ。
「坊主、何故そんな風に言える?」
 彼は確か、朝の。
 オズは意を決して口にした。
「セイラが。人魚がそう教えてくれたからです」
 父親は案の定、何を言っているんだと今にも怒鳴りつけそうな顔をして。
 その前に、老人は静かに言った。
「なるほど、それならばありえるかもしれんの」
頷きながら老人は問う。
「人魚とは海の娘。わしらよりよほど海については詳しいだろう。あのようなこともあった後だしの、そのような埒外の嵐になってもおかしくはあるまい」
「しかしな…」
一人言ってもないところまで納得していく老人とは対照的に、父親は渋い顔をしている。
「信じられんか、ギルス」
「信じる方がどうにかしてるだろう、そんなこと」
「ふむ。と言っておるが、どうかね坊主。」
 信じてもいいのか。
 オズは、今度は迷うことなく言った。
「俺はセイラを信じてる。」
 あんなに必死に、教えに来てくれた。
 俺を信じて、まかせてくれた。
 あんなに真剣なセイラを、疑うわけがない。
「そうかね」
 老人は笑って、
「じゃあ、逃げる準備をせんとな」
 そう言った。
「爺さん、あんたも何言って…」
「用心にこしたことはなかろう。だいたい、嘘だったとしてどうかね。お前さん達もどうせ仕事にならんのだから丘に登るぐらいよかろ」
 坊主も嘘をついて遊ぶ年頃でもあるまいしの、と笑って老人は歩き去っていった。
「…信じないなら、勝手にしろよ」
 オズは父親の手をふりほどく。まだ町全体に言って回るにはほど遠い。あとどれだけ時間があるかもわからないのだ。今度こそ駆け出そうとするオズの頭を父親ははたいた。
「阿呆、もうちょっと考えろ。―組合行くぞ、手分けせんとどうにもならんだろう」
「親父」
「これでふざけてたんだったら、町中土下座させてひきずりまわすからな」
 まったく、一緒に謝る親の身にもなれ、と父親は呟いた。


 雷のような波の音。
 白く砕けて泡立つのが、遠目にもわかった。
 一人また一人、丘へ人が登っていく。
「見ろ、潮が…」
 誰かが指さした。
 入江からどんどん水が引いていく。
 そして水平線の彼方に、長い長い帯が現れた。
 それはおもむろに迫ってくる。どんどん大きくなりながら。
 夕陽を受けて、大波は赤々と染まっていた。
 その頂が、不意に崩れ落ちる。
 ゆっくりゆっくりと。大波は静かに、波間に紛れていった。
 息をついたのもつかの間、また潮が引く。
 沖の方で帯がせり上がってはぐしゃりと潰れる。
 波が渦巻く。何かがせめぎ合っているかのように。
 ざあぁ、と砂を晒して潮が引く。
 業を煮やしたように、ひときわ大きな波が迫り来る。
 天に届きそうな、巨大な水の壁。
 今度こそ陸に襲いかかる、と人々は息を呑んだ。
 しかしそれは入り江の中、ぴたりと動きを止めてしまった。
 凶悪な腕を振り上げたまま、大波は凍り付いたように動かない。
 それはあり得ない光景だった。
 海鳴りさえも静まりかえる。
 急に時を止めてしまったかのような海。
 しかし依然として大波はそこにあり、空気は痛いほどに張りつめていた。
 一秒が何倍にも感じられる中。
 耳が痛くなりそうな静寂に、かすかに聞こえてくるものがあった。
 それは祈りの言葉のようだった。
 赦し、訴える。優しく、毅然と。悲痛に、真っ直ぐに。
 セイラ、とオズは呟きかけてためらった。
 その歌があまりにも美しくて。
 丘の上の皆が、声もなくその光景に見入り、その歌に聴き入っていた。
 いつしか空には、白金色の月が昇っていた。





 走る。走る。駆け下りる。
 昨日あれだけ酷使したものだから、膝が震える。
 それでも、早く早く、と急ぐ気持ちの方が勝っていた。
 港を下りた入江の浜。
 波は穏やかに寄せては返している。
 そこにやっと姿を見つけて、オズは叫んだ。
「セイラー!」
まるでいつものようにぶんぶんと手を振る。でもそこまでがちょっと限界で息が上がってしまった。
「大丈夫?オズ」
そう問いかける声は少しかすれていて、もったいないなと思った。
 オズは満面の笑みで顔を上げる。
「…やったな!」
「…ええ」
噛みしめるようにセイラは微笑んだ。
 あの夜。
 長い長い膠着状態の後、波は静かに小さくなって、崩れ落ちた。
 まだ何か言おうとするかのように、ごうごうと海鳴りは響いていたけれど、それもだんだんと収まり。
 穏やかな顔を取り戻した海で夜が明けた。
 港の町は、守り抜かれた。
「セイラの歌、聞こえてたよ。」
 目に見える滅びを前にして、みんなが震えていた。
 そんな中聞こえてきたあの歌声に、どれほど助けられたことか。
 いや、実際。多くの人は知るよしもなかっただろうが、この町はあの歌に救われたんだ。
「すごいな、あんなことできるなんて」
「…私もちょっと信じられないくらいだ。あんなだいそれたこと」
 海の娘一人なんて、大海を前にしては赤子以下のはずで。
 止められるなんて、ありえないはずだった。
 まるで奇蹟。
 …奇蹟なんて馬鹿げたこと、ありえたなんて。
 オズは首を横に振った。
「セイラががんばったから。がんばってくれたからだよ。」
 セイラはほのかに頬を赤らめて、ありがとうと呟いた。
 そして背を向ける。
「こんなことができたのはきっと、オズのおかげだ」
 さくり、と砂を踏み、一歩海に近づく。
 一歩一歩、痛みを感じながら。
「もう…行ってしまうのか?」
 さくり。
 足は止めない。
「ええ、私は還る」
 この海へ。
 それが私の代償だ。
 さよなら、と口の中で呟いて、笑った。


「そして、」
 魔女は言葉を切る。
「愛した陸の子に愛されなければ、その身は保てず、泡と消えてしまうよ。そういう薬だ」
 それでもいいのかね、と魔女は問いかけた。
 覚悟はあるのかと。
「…ええ」
 セイラは薬の瓶を手に取る。
「今更ためらうことはないわ」


 朝陽がきらきらと髪に透けて、白い肌を照らして、光に溶けてしまいそうだと思った。
「セイラ」
 さくり、と砂が鳴る。セイラは振り返ってくれない。
 波打ち際まで後数歩。
 オズは駆け出す。


 ぱしゃん。


「…オズ」
 波打ち際まで後一歩。
 その場所で、セイラはオズの顔を見上げた。
 邪魔をするように回り込んで、オズは息を吸い込む。
「俺―」
 なんとなく、今言わなかったら一生後悔するような気がした。
「君のことが好きだ。セイラ」
 セイラは目を見開く。

 ああ、そんなのありえないはずだったのに。

「セ、セイラ!?」
 オズが慌てた声をあげる。
 私は気がつけば、ぽろぽろと大粒の涙を流していた。
 おろおろしているオズに、一足海に踏み込んで、セイラは抱きついた。
「    」
 小さな声でささやきかける。
 オズは小さく目を見開く。そして、セイラをしっかりと抱きしめ返した。

 こんなに奇跡が起こるのならば、
 なぜあの子には一つも奇跡が起こってくれなかったんだろう。
 それだけがとても悲しかった。

 小さく小さく、波の間、泡が笑うようにはじけて消えた。

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