強き願いを持つ者よ
己が心に忠実な者よ
我らが名を呼ぶがいい
汝の前に扉は開かれるだろう


Darkness


 ぶつぶつと何か呟きながら男は床にナイフで紋章を刻み込んでいった。それは逆位置の五芒星を中心にルーンに似た文字が連綿と書かれ、大きな円を描いている。逆五芒の頂点には血を固めたような色の蝋燭がともされ、彼の陰鬱な表情をかすかに照らしていた。
「滅べ…滅びてしまえ…みんな…一人残らず…」
がり、と彼のナイフが陣の周囲にいびつな曲線を描いた。彼は引きつったような笑みを浮かべ、低く呟いた。
「おいで下さいませ…闇を統べる神、ディストルト様」
陣が歪んだ円で閉じられたとき、その線の一本一本がふいに紅い光を放った。男は恍惚として嘆息した。
 ついに、あの方がおいでになる。人間などというおぞましいモノがはびこったせいで、この世界のありとあらゆる物は汚されてしまった。こうなってはもう駄目だ。この世界を救うにはもはや一度すべてを滅ぼさなければならないのだ。それ以外に道はない。それができるのは唯お一人、ディストルト様だけ。この満月の夜、世界は救われるのだ!この私の手によって。
 しかし、昏い光の中五芒星の中心に現れたのは、彼の信仰する絶対神とは似ても似つかぬ醜悪なモノだった。ドブ川から這い上がってきたような悪臭を漂わせるそれは、犬のような形をしていた。ただしその身の丈は熊ほどもあり、唇が腐れ落ちて牙がむき出しになっている。背中からは骨に腐った肉と皮をめちゃくちゃに貼り付けたような、羽のような物が生えていた。その異様な姿と悪臭にたじろいで男は一歩後ずさった。
「な…なんだお前は!私はお前など呼んでいない、去れ!」
醜悪な巨犬は喉の奥で低くうなり、男を睨んだ。その眼窩には何もなく、ただ黒い虚(うろ)があるだけだ。
「ひっ…!」
男は逃げだそうとした。しかし踵を返す間も無く醜悪な巨犬の牙が男を捕らえた。
 ばきっ、ごりっという音が断続的に響いた。蝋燭は倒れ、部屋には月明かりだけが差し込んでいる。天にはほんの僅か欠けた月が皓々と輝いていた。巨犬は喉を反らして、月に吠えた。

 市の南部に位置する矢浜港には、普段ほとんど人が訪れない。廃港など何の役にも立たないからだ。一昔前ならば子供達の格好の遊び場になっていただろうが、今時の子供達はめっきりインドア派だ。周囲にこれといって特に目立つ何かがあるわけでもない。そのせいで、この周辺にはやたら異世界―冥界のモノが現れることは知られていない。
 夕暮れ、俗に言う逢魔が時。真っ赤に染まった空を背景に塚本ヒロは走っていた。別に青春ドラマの撮影をしているわけではない。いつも通り逃げているだけだ。
「あーもう!しつこいわお前ら!」
怒鳴ってみても、相手から同じような調子の吠え声が返ってくるだけで諦めてくれない。三匹の野犬にヒロは追いかけられていた。
「走りながら叫べるとは、たいした肺活量ですねぇ…」
「!その声は!」
ヒロが上を見上げると、そこには大きな漆黒の鳥がいた。
「何やってるんですか。たかが犬ぐらい楽勝で振り切れるでしょう?」
あきれ顔でザルツは言った。ふっとヒロはニヒルな笑みを浮かべた。
「ふふふ…バニッシュ&アピールは逃げの奥義!犬相手なんかで…うわ!?」
「あ」
かっこつけて注意散漫になっていたヒロはけつまずいて転んだ。矢浜港は度重なる戦闘ですっかりボロボロになっている。瓦礫もごろごろしていた。
「わわ、やばっ!」
迫り来る野犬に一咬みくらいされることを、ヒロは半ば覚悟した。その時、矢浜港に銃声が響いた。一発、二発、三発。
「わっ!」
一発ヒロの頬を銃弾が掠めた。
「あ、失礼」
短く言ってザルツは地面に降りた。
「な…何するんや!」
「すみませんね、命中85ですんで時々流れるんですよ」
「そうやない…いや、それもあるけど」
ヒロは頭から血を流して倒れている三匹の犬を見回した。即死していることは間違いない。
「『たかが犬』なんか殺さんでもええやろ!?」
うんざりした顔でザルツは言った。
「…あのうざい動物愛護団体じゃあるまいし、そんなこと言わないで下さいよ。どうせ野犬なんてそのうち保健所で殺される運命なんですし」
「あんた…」
そう、こいつはこういう奴だった。自己中で他のモノなんか利用することしか考えていない。興味のないモノは殺すときさえも何も感じない冷淡な悪人。…一発殴り倒してやろうかとヒロは思った。
 ヒロの内心を見透かしたように、ザルツは冷笑した。
「今更でしょう?」
「…俺は別に逃げるだけやないで」
「わかってます。まぁでも、別の機会にしてもらえませんか。」
額を撃ち抜いた犬をザルツは持ち上げた。
「ヒロ、最近これ以外にも犬に追われませんでした?」
「あ?ああ…そういえば」
突然変わった話題をいぶかしみながらヒロは答えた。ここ最近、妙に殺気だった野犬が多い。つい一昨日も別口に追いかけられたばかりだった。
「ここ数日、黒川市で人間が犬に咬まれる事故が続発してるんですよ。ここ一週間だけで30件以上。野犬のこともあれば、飼い犬のこともある。ターゲットは近くの通りすがりで老若男女様々、特に被害者に共通点はない。咬まれた者達は皆原因不明の昏睡状態に陥り、保健所は狂犬病を疑ったがウイルスは検出されなかった。」
滔々とレポートを読み上げるようにザルツは話した。
「今のところ、まったく証拠はない―」
にっとザルツは笑った。
「当然です。彼らには知るべくもないでしょう」
ザルツは犬の死体をヒロに投げ渡した。
「それに触れてなお確信しましたよ。あなたもまがりなりにも冥界研究家、わかりませんか?」
「はぁ?」
困惑しながら受け取ってしまった屍をヒロは眺めた。
「えーと…柴犬?」
「あなた本当に研究してるんですか?」
冷ややかにザルツは言い返した。ヒロはかちんときたが、やはりただの犬にしか見えない。小さくため息をついてザルツは言った。
「…魔力、ですよ」
「魔力…そんなん感じないけど」
「微力ですからね」
とはいえ、普段冥界生物に接している者ならば雰囲気でわかるレベルだ。ヒロが普段から鈍いのを思い出し、ザルツは謎かけはやめて普通に説明することにした。
「瀬尾の組員も一人咬まれましてね。その時に魔力を感じたんで調べてみたんですよ。咬んだ犬を調べるのは不可能でしたが、被害者とそれには同じ術者の魔力が残ってます」
「術者とかわかるもんなん?」
「ええ。大雑把にいえば属性とかですけど、他にも色々と違うものなんですよ」
鈍いとわかりませんが、と心の中でザルツは付け足した。まったく同じ顔や声の人間が居ないように、まったく同じ魔力を持つ者も居ない。ただ、一回会えばどんな人の顔でも覚えられる人もいれば、何度会ってもなかなか人の顔と名前が一致しない人がいるように、その判別力には個人差がある。
「ふーん…つまりこれ、冥界生物?」
「いいえ、それはただの犬です」
「なんや、やっぱり柴犬でいいんやん」
「…元は人畜無害な犬でしたよ、人を咬んだ奴らも。ただそれに、細工をした者がいるということです。人か、それ以外かはわかりませんけど」
「操られとったってことか…」
かわいそうやな、と呟いてヒロは犬を見下ろした。
「せめて埋めて…」
「えい。」
ヒロのセリフが終わらないうちにばしゃん、と水音がした。
「ちょーっとー!なにしてんのー!」
「水葬。」
しれっと言ってザルツはもう一匹海に放り込んだ。
「分解されるのは同じだからいいじゃないですか、どうせ魂はとっくに抜けた肉塊なんですし」
「(こいつ…)」
「まぁ、それはともかくとして行きましょうか」
「は?」
「乗りかかった船ですし、あなたも手伝ってくれますよね?」
ザルツはヒロの手から三匹目の犬を取り上げて、海に放り込んだ。
「……」
ザルツはどこかとても楽しそうだ。こういうときは、確実にやばい。ヒロは言い訳もせずに首を横に振り、踵を返して走り出した。ザルツは小さく舌打ちした。
「…盾を逃してしまいましたね」

 空は茜色から限りなく黒に近い藍色へ変わった。夜空よりも深い黒の鳥はゆっくりと羽ばたき、地上を見回している。
「東…雄樋土山でしょうか…?」
主人の呟きに呼応して、ニックスは東へ進路を変えた。遙か上空からでもその魔力ははっきり感じ取れる。黒川市全域に影響を及ぼすほどだから、相当な実力はあるだろう。しかしまったく気配を隠そうともしていないのが不自然だ。何かある。確実に。
 木々を器用に避けて、ニックスは雄樋土山中腹に舞い降りた。魔力の気配もここまで近づくと方向が判別できない。枝葉が空を覆う森の中はより一層暗いが、ザルツにはまったく苦にならない。過剰に光に反応してしまうヴァンパイアの目は闇夜の方がむしろよく見える。ただ、見えようが見えまいが整備されていない森に分け入るのは体力を使う。あまりうろうろと獣道を歩き回りたくはなかった。少し考えて、ザルツが短く呪文を詠唱すると、虚空に描かれた魔法陣から魔王フォカロルが現れた。開口一番ザルツは言った。
「斥候してきてください」
「お前なぁ…だから俺はパシリじゃ」
「『たまには』役に立ってくださいよ。体力と敏捷性『は』買ってます」
思い切り『たまには』と『は』を強調してザルツは言った。過去数回参戦したときほとんど成果を上げられなかったため、フォカロルの扱いはどんどん悪くなり立場もすっかり逆転していた。かつてはザルツの方が下手に出ていたのだが。
「(ソロモン王に使役されてたころの方がまだ良かったかもしれない)」
「黄昏てないでさっさと見てきてください」
「(ちくしょう、こいついつか絶対縊り殺してやる)」
魔族の契約は重い。『主従』の契約を結んでしまった以上、フォカロルは理不尽であろうとザルツに従うしかない。フォカロルは悔し紛れに木を一本蹴り倒した。木々の乱立するここでは翼も使えないので歩いて探すしかなかった。
「駄目ですよ、むやみに折ったら林野庁に怒られますから」
「そんなこと知るかっ!」

 ぴくり、と一頭の犬が耳を動かした。その犬が起きあがるのを見て、一匹、また一匹と犬が一方向を睨みながら起きあがっていく。うなりを上げるその数は20…いや、30。
「邪魔ですねぇ…」
眉をひそめてザルツは呟いた。これだけの犬が集まっているといっそ圧巻だ。しかし彼にとっては邪魔以外の何物でもないらしい。
「どいてくれ…なんて言って、通じれば楽なんですけどね」
立ち退く気が全くない侵入者に、野犬たちは飛び掛かった。ザルツは気怠げに銃を構えた。一発。二発。三発。四発。五発。六発目は、銃声の代わりにカチッと金属音がした。弾切れだ。しかし、既に詠唱は終わっている。
「―エイファズエルド」
野犬たちが断末魔の悲鳴を上げる。地を舐めるように紫苑の炎は燃え広がり、集められた雑魚達を灼いていった。ほんの数匹だけ、炎を逃れた犬は背を向けて走り出した。支配が切れたらしい。
「余興にもなりませんね。ったく…」
しかしこれでようやく、目的のものに辿り着ける。
 漂う獣の匂いより、血の臭いより、それの放つ饐えたような死臭は強かった。のそり、とそれは身を起こした。漆黒の毛並み、暗紫の翼。この世に有り得ざる熊ほどの大きさをした有翼の魔狼だ。つややかなその毛皮と翼は月光の下とても美しい。しかしその眼球は左しか無く、右目のからっぽの眼窩からはじくじくと血が滲んでいる。左の翼は羽根もなく、火傷でもしたかのような醜い肉の塊だ。右前肢など、崩れ落ちそうな腐肉の下に白い骨が見えている。その異様な姿にフォカロルは眉根を寄せた。
「…なんだ?あの姿は…」
「失敗ですよ」
「…失敗?何のだ」
「どっかの素人がうっかり呼び出した、というところでしょう。不完全な召喚により魔力は削がれ、あんな醜悪なゾンビもどきみたいになってるんです。あなたが喚ばれたんじゃなくて良かったですね。」
「…そうだな」
フォカロルは不運な同族をほんの少し哀れんだ。
「で?どうするんだ」
「彼の力はあんなものではない。完全な状態の彼を従えられたならかなりの力になるでしょうね。けど…」
狼はうなり声を上げ、地を蹴った。魔狼の突進をかわしてザルツは言った。
「どうやら交渉を解する気はなさそうですね!」
「だな―やるか!」
フォカロルは好戦的な笑みを浮かべた。ここのところ戦っていなかったので嬉しそうだ。
「風よ、我が元に集え」
彼の手に魔力が集まって渦を巻き、ぱちぱちと燐光を弾かせる。
「刃となって我が敵を切り裂け!疾風の刃!」
彼が手を払うと、衝撃波が放たれた。地を抉り進む風の刃を、魔狼は素早く横に飛んで避けた。
「……」
「そこ!指さして笑うな!」
フォカロルは顔を赤らめてザルツを怒鳴りつけた。格好付けただけにより格好悪い。フォカロルとザルツの命中力は互角なはずなのにやたらフォカロルばかりスカるのは何故なのだろう。やはり運の差だろうか。フォカロル三軍落ち決定、と呟いてザルツは詠唱を始めた。
「《ケーナズ》《ダガズ》…闇の深淵にて罪を灼く炎。尽きること無い愚民の昏き怨嗟と私欲で燃え上がる炎よ。我が導きに従え。我に仇成すものを灼け」
魔狼が牙を剥き地を蹴った。しかしその牙が届く前にザルツは詠唱を完成させた。
「《ギューフ・ユル》―エイファズエルド!」
魔狼が集めた野良犬相手とは比較にならないほどの魔力が放たれた。炎の勢いは魔狼を宙に跳ね上げた。魔狼は無様に脇腹を地面に叩きつけた。喉からヒューヒューと音を立て、魔狼はザルツの方を睨んだ。しかし、よろよろと立ち上がりかけるも魔狼はその場に崩れ落ちた。
「…弱いですね…」
不完全な状態では、こんなものか。興醒めですね、とザルツは呟き、冷ややかな眼で魔狼を見た。
「トドメは、これで充分か」
ザルツは、空になった弾倉を引き抜いた。バラバラと薬莢が地面に落ちる。新たな弾倉を込めて、ザルツは魔狼に銃口を向けた。しかし、彼がトリガーを引きかけたその時、魔狼は地を蹴った。
「なっ!?」
そんな余力はないはず。ザルツは目を見開いた。慌てて撃った弾丸は逸れ、魔狼は牙を剥いた。みしっと軋むような音がした。
「くっ…」
左腕に喰らいついている魔狼の眉間にザルツは素早く銃口を押し当てた。トリガーを引く。くぐもった銃声と、骨を割る音がした。魔狼の体から力が抜け、血色の瞳が閉じられる。そしてその身体はざらざらと砂のように崩れ落ち、虚空に消えた。それを見届けてザルツは一つ息を吐いた。
「やれやれ…最期の最期に悪あがきしてくれましたね。」
噛みつかれる直前反射的に腕をかざしたため、喉笛を噛み砕かれるのはまぬがれた。しかし、腕をやられるのもそこそこに嫌だ。
「おいおい、大丈夫かそれ?」
喰い千切られずにはすんだが左腕からはぼたぼたと血が滴っている。ザルツはてきぱきと止血をしながら応えた。
「大丈夫ですよ、幸い骨や神経は無事です。ほら、指動きますから」
「お前って本当に悪運強いな…」
「あなたの運が悪すぎるんですよ。ノルンの不興でも買ったんじゃないですか?」
「そんなわけないだろ。だいたい異教の神のことなんか知るか」
くすくすとザルツは笑った。
「それも…っ」
「?…おい?」
不自然に言葉を途切れさせたザルツにフォカロルは訝しげに話しかけた。右手で頭を押さえてザルツはなんでもない、と答えようとした。立ち眩みがしただけだ、と。しかし、一旦は収まりかけた眩暈は更に酷くなった。頭の中を直接掻き回されるような不快感。がくんと膝を付いたザルツを見て、フォカロルはぎょっとした。
「お、おいどうしたんだ!?」
表情、蒼白な顔色。ふざけているわけではないことは明らかだった。答える余裕もなく、ザルツは落ちかける意識を必死に保っていた。あの程度の出血、大したことじゃない。…毒か?いや、これは…
“よこせ”
“その魔力、その身体、我によこせ”
頭に響く声に、ザルツはふざけるなと言い返した。誰が、そんなこと。しかし眩暈は更に酷くなり、ザルツの視界は暗転した。

 どろりと重い闇がまとわりつく。深淵に沈めようとする力をザルツは払いのけようとした。普段なら心地良い闇も、悪意とセットで押しつけられると不快以外の何物でもない。
“よこせ”
“魔力を”
「(…しつこい!)」
目を開くとのしかかる闇は無数の腕の幻影を形取った。あるものは押さえ込み、あるものは引きずり込み。チープな幻覚だ。さしずめ私が殺した者の手だとか、私の罪の数だけの腕だとかいうつもりか。しかしありきたりでもその力は強い。あがいても無数の腕を振り払うことはできなかった。ザルツは眉根を寄せた。力が上手く使えない。
「(魔力をほとんど奴に持って行かれたか…)」
弱っていても、いや魔力に飢えているからこそ奴はより力を発揮したと言うことか。油断したな、とザルツは己を嘲った。これ以上あがくのは無様なだけか、と諦めかけたとき、ふいに圧力が和らいだ。
「……?」
ばらばらと手の幻影が崩れ落ちる。微かな光に照らされて。一瞬、蛍のようなその光は人の姿を取った。白に近いプラチナブロンド、アルビノ特有の紅い眼…
「…エルフィス…?」
昔と同じ姿で、昔と同じ微笑を浮かべて、彼は消えた。…今のも、奴の幻だろうか。それとも私の作った幻だろうか。それとも…。…どれだったにせよ。確かなのは、こちらに有利に働いたということだ。
「手にしたチャンスは、有効に使いませんとね」
そういってザルツは笑みを浮かべた。さっきまではこの闇そのものだった奴は、もう半ば引き剥がされかけている。それでもまだ諦めず魔狼は闇の幻肢を伸ばしてきた。しかしもはやそれはまとわりつくだけで、引きずるほどの力はない。
“よこせ…魔力を…”
「―王冠〈ケティル〉」
ざわり、とまとわりつく幻肢がざわめいた。
「智慧〈コクマ〉、理解〈ビナー〉、慈悲〈ケセド〉、法〈ゲプラー〉…」
詠唱と共に幻肢が輪郭を失っていく。
「崇高〈ティフェレト〉、永遠〈ネツァーク〉、尊厳〈ホド〉、基盤〈イェソド〉、王国〈マルクト〉…深淵〈ダアト〉。10と1のセフィラーによりて、世界はいと高きYHVH〈ヤハウェ〉に集まりそして放たれる。」
細い銀の光が魔狼の周りに幾重にも重なる。
「―我、力と真理の鎖で、其を縛す」
詠唱の完成と共に光の銀糸は堅固な鎖に姿を変えた。
「私の、勝ちですよ」
魔狼は静かに目を伏せた。

 その場に座り込んだきり呼びかけてもまったく反応しなかったザルツは、軽く眉根を寄せて頭を押さえた。
「おい、大丈夫か?」
無言でふらりとザルツは立ち上がった。纏う魔力が、変わった気がした。まるで、同族のような。ゆっくりと目を開き、ザルツは笑った。
「心配なんかしてたんですか?」
皮肉たっぷりにいつも通りの調子でザルツは言った。間違いなく、こいつだ。
「驚くだろうが。一瞬あいつに乗っ取られたのかと思ったぜ」
傷を介して憑依し、乗っ取る。奴がよく使った手だ。くすくすと笑って、残念でしたねとザルツは言った。
「あのまま私が乗っ取られてたら、契約は解けたかもしれなかったのに」
「あ」
そうだったじゃないか。フォカロルは頭を抱えた。せっかくのチャンスだったっていうのに。一瞬でも心配するより、むしろ奴の方に加勢するべきだった。
「ちっくしょう失敗したー!」
悔しがるフォカロルを見てザルツは声を上げて笑った。まったく、どうにもこの魔王は抜けている。怒ったフォカロルはザルツに殴りかかったが、あっさり避けられた。
「あはは、とりあえず帰りましょうか」
第二撃を受け流してザルツは言った。少し西に傾いだ月が、木々に囲まれた夜空に輝いている。月をバックにゆっくりと大きな鳥の影が旋回していた。律儀な夜の鳥は主の仕事が終わるのを彼らの頭上でずっと待っていたらしい。いつもならニックスを舞い降りさせるところだが、ザルツは短く呪文を詠唱した。ばさり、と彼の背に暗紫の翼が広がった。
「お前、それ…!?」
目を見開くフォカロルを見て、得意げにザルツは翼を羽ばたかせた。

 影からするりと抜け出し、漆黒の狼はザルツの足下で行儀良く座った。その首には動くたびにしゃらしゃらと音を立てる銀の鎖と、銀の首輪がある。
「なんで縮んでるんだ?」
喚んでもないのに現れたフォカロルに撫でられても狼はじっとしている。大人しく控えている様子は狼というより犬のようだ。身の丈も少々大きめの犬、といった感じだ。
「だって、熊みたいな大きさでうろつかれたら邪魔でしょう?」
答えながらザルツは手元の本のページを繰っている。
「ふぅん、ずいぶんうまく手懐けたものだね」
ふいに、頭上から声が降った。本を閉じて立ち上がりザルツは軽く頭を下げた。
「いらっしゃると思ってましたよ、『地獄の大公』」
「『座天使の公子』!?」
「おや、また人間に使役されてるんだね侯爵」
宙にセフィロトの樹の図が浮かび上がり、空間が開かれた。そこから現れたのは黒ずくめの魔族―いや堕天使だった。派手な衣装に身を包み、きつい香水の香りをくゆらせて、彼は婉然と笑った。
「久しぶりだね、フォカロル。人の下につくのはソロモンの時で懲りたと言ってなかったかい?」
「公爵…お前、封印を破っていたのか」
「とっくにね。あの忌々しい封印の小瓶に閉じこめられているなんて、僕には耐えられない。どっかの馬鹿が封印にヒビを入れてくれた時に逃げさせてもらったよ」
「ヒビ?」
「もう八百年は前かな。侯爵の封印には傷が付かなかったんだよね。」
湖の底深く沈められた、七十二柱の魔王を封じたソロモンの小瓶は一度だけ掬い上げられ傷つけられた。その時、一部の魔王の封印は解けた。
「昔っから運が悪いんですね、フォカロルって」
「そうそう、ソロモンの下にいた頃からね。たとえば〜」
何か暴露しかけた堕天使の口をフォカロルは塞いだ。
「…で、何しに来たんだ強運な公爵殿は」
フォカロルの手をどけて堕天使は言った。
「決まってるだろう?サーガタナスを従えた人間に会いに、だよ」

 楽しげに堕天使はずらりと並ぶ本を見回した。
「人間にしてはよく集めたもんだね。」
それらはすべて魔術書だ。洋の東西、新旧を問わず集められたそれは多岐に渡っている。
「流石に人間界には流れなかった魔術についてはほとんどないみたいだけど」
「それは…そうですね、残念ながら、今のところ」
ザルツは苦笑いした。冥界住まいは長いとはいえ、冥界生物になったわけではない。冥界生物でなければ手に入らないものが多いのは確かだ。
「うんうん、でもやっぱり凄いよ」
上機嫌で堕天使は部屋のあちらこちらに目をやっている。
「人間の住居は珍しいですか?」
「そうだね。君は人間でもないし」
天使であったときは金色だったという、波打つ黒髪をいじりながら堕天使は言った。
「そこそこに興味はあるかな」
「―アシュタロト公爵」
ザルツは話をやや強引に変えた。
「連れ戻しに来たわけではないのですか?あなたの配下を」
堕天する前から変わらぬアメジスト色の目を彼は細めた。
「その気なら、もっと早く迎えに来たよ。それにサーガはもう君に懐いてるからね」
羽持つ漆黒の狼の名は、サーガタナス。アシュタロトの第一配下だ。しかし、彼はかつての主ではなくザルツの足下に控えている。
「薄情な子だ。僕のことは忘れているようだね」
「…サーガタナスは」
「わかってるよ。不完全な召喚が彼の記憶と自我を壊した。まったく、困った素人が居たものだ。最も仕返ししようにも、その馬鹿な素人はとっくにサーガに殺されているだろうがね」
アシュタロトが髪をかきあげると、アクセサリーがじゃらりと音を立てた。
「けど僕を忘れていようが、野にさすらっていたなら引きずって帰ったさ。平凡な魔術師の手に落ちていても。」
「それは褒め言葉ととって良いんでしょうかね?」
くす、と笑ってアシュタロトは続けた。
「君みたいなのは珍しい。自ら永久(とわ)を選び、ひとかけらも後悔していないのは。」
「……」
「後悔するほど生きていない、というわけでもなさそうだけど?」
「後悔、ですか…しませんよ、たぶん」
呟くようにザルツは言った。
「好き勝手生きてきてるんです。それで後悔なんかするわけないでしょう。後悔に明け暮れるほど暇でもありませんし」
「そう」
「ああ、強いていうなら本を読んでる途中に死んだら後悔するかもしれません。続きが気になるじゃないですか」
「これだけ読んで、まだ飽きない?」
「ええ、全然」
目を伏せてアシュタロトは笑った。
「本当に、珍しいよ。君は。」
じゃらりと音を立ててアシュタロトは立ち上がった。
「サーガは君にあげるよ。ただし、君がつまらない奴になったら返してもらう」
「わかりました」
「『約束』だよ」
念を押すように、アシュタロトは言った。魔族の約束は、すなわち契約だ。一度だけサーガタナスの頭を撫でてアシュタロトは手を振った。
「……」
アシュタロトは魔法陣をくぐり、異界へ消えた。
 後悔なんて、していませんよ。この選択を。
「そんなことしたらあなたに失礼ですからね…エルフィス」
ザルツはぽつりと呟いた。


後書きというか呟き(同時進行)
 何故だろう、こんなに前半ホラーちっくになってしまったのは。ザルツだからか?
 彼は妄想に取り憑かれたパラノイア患者さんかと思われます。カミサマを呼ぶ前に自分を精神科に引きずっていきましょう。
 ちなみに彼とザルツには繋がりはありません。繋がりがあったらもっときちんとした奴呼べてますって。ど素人さんが偶然召喚しちゃったんです。
 動物愛護団体とか林野庁とか…最近何かトラブルでも起こしたのか?ザルツ…
 悪人に見えない、と言われる前に書いたので、ザルツがやや悪人です。もしくは悪人気取り(笑)。
 今回は謎を残したままの終了です。エルフィスが何者かは別の話で。
 文中の《 》で囲まれた単語は古代北欧単語、〈 〉で囲まれているのはセフィラーの…イスラム読みだったかな?(うろ覚え)本当は《 》の方はルーン文字をはめ込みたかったのですが、素材の用意が間に合いませんでした。次回はやりたいなぁ…

サーガタナス
 アシタロテ直属の部下。人間の心に忍び込み、奥底にある本心を探り出す特技がある。そして気が向けば、記憶と性格を消しその人ごと攫う事もできる。

アシタロテ
 左手に鎖鎌、龍を乗り回す。地獄の西の領域を治める大公であり、地獄の財務省官を兼ねている。人間に「怠惰、不精」を誘う。暇な時は堕天使達のガイダンスカウンセラーを務めた。

YHWH
 いわゆる神。イスラム教やキリスト教における主神。みだりにその名を呼んではならず、普通『主』と称する。ヤハウェ、エホバ、アドナイなどと発音する。
 この上なく神聖なYHWHの力をザルツが使うのは少々ミスマッチですが…別に信仰はしてません。利用してるだけです。

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