「ごめんなさい…ごめんなさい」
火のついたように泣き叫ぶ赤子を抱いて、彼女はただ涙を流しながら繰り返した。
「こうするしかないの…ごめんなさい…」
赤子の背からはとめどなく血が流れていく。血まみれの手で女は残されたもう一枚の翼に手を掛けた。小さな羽がみしり、と軋む。
「許して、坊や…!」
肉が千切れ、骨が外れる湿った音を赤子の悲鳴がかき消した。



 ―蒼き翼持つ者の元に光集い、祝福は彼の者と共にあり。
 ―赤き翼持つ者の元に闇集い、災いは彼の者と共にあり。


「くそっ…愚か者どもが…ッ!!」
壁についた手は彼の体重を支えきってはくれず、彼は床へと崩れ落ちた。激しく咳き込みながら彼は手を伸ばす。
「このままでは…済ませないぞ…私は…必ず…」
 苦しい。
 憎い。
 悔しい。
「まだ…死んでやるものか…!」



 ―蒼き翼持つ者の元に光集い、祝福は彼の者と共にあり。
 ―赤き翼持つ者の元に闇集い、災いは彼の者と共にあり…


ボイスレス―創りし者、創られし者(3)


 エリュシオンは完全な美を持つ箱庭だが、宮殿から遠く離れた外縁庭園の外れともなると手入れもいいかげんだ。このあたり、皮肉なほどこの国らしい。冷たい月光に照らされた荒野はくすんだ銀色をしている。
「…こんばんは」
驚いた様子もなく彼女は振り返った。影のような黒衣は三日月夜の闇に溶けていきそうだ。世界は、この場所は昼よりは彼女を受け入れているようだった。あたりに視線を巡らせる彼女に、アズールは穏やかに話しかけた。
「僕だけだよ。安心して」

 わかりやすく眉根を寄せて、アキスはアズールの頭を小突いた。
「ついさっきの話を忘れたのはここか?おい。」
「わ、忘れたんじゃないけど…」
「覚えてるだけじゃ意味無い」
後わずかで目的地、というところで地に降りたアズールは『一人で行かせてくれ』とごねていた。だって、と口ごもりながらアズールは言った。
「いくら戦う気はないって言っても軍神のアキスが居たら説得力ないだろ?雰囲気ですぐ戦闘になっちゃいそうで…」
はぁ、と大仰にアキスはため息をついた。
「押しが弱いくせに頑固だよな、お前…」


「…アキスにはワガママ聞いてもらったから」
今日だけでたくさん借りができたなぁ、とアズールは苦笑いする。しばらくは文句も言えなさそうだ。黒衣の女性は唇だけで何事か呟いた。アズールにも何故なのかと聞いていることはわかった。
「わからないままは嫌なんだ」
わからないまま、なし崩しに戦うのは。たとえ彼女が敵でも、罰せられるべき存在だとしても…おざなりに処分するのはエリュシオンのいつものやり方で、アズールが大嫌いなやり方だ。
「君がわからない。君は復讐者にも、反逆者にも、狂人にも見えない…殺意も、憎しみも感じない」
強いて言うならば意思のない傀儡。しかしただの傀儡でもない。
「なんでそんなに…悲しんでいるの?」
彼女から感じるのは悲しみだった。微かで、深く、静かな。
「君は、主に従わされているだけで、殺しなんかしたくないんじゃ…」
遮るように彼女は一歩前に出た。ほんの僅か身構えるアズールの目の前で、大鎌が陽炎のように揺らいで闇に消える。すっと彼女はアズールの手を取った。
「え?」
纏う黒衣と対照的な、真白い指がアズールの掌に字を綴る。
「voiceless…?」
〈…私の、名です〉
「!」
〈名を知るあなたが望むならば、私はこうして伝えることもできます。声で話すことはできないのですが〉
「《声なき者》…愛のないネーミングだなぁ」
笑いも怒りもせず、淡々と彼女は言った。
〈私は父の刃です。道具の名前なんて《唖》で充分ですよ〉

『お前は刃だ。私に仇成してきた者どもへの…あの愚か者どもへの制裁の刃。わかるな?』


『蒼き翼の賢者殿が直々にいらっしゃるとは…恐悦至極といったところだな』
口の端を歪めてユージィンは嗤った。立ち上がり、音もなくゆっくりとジークに歩み寄る。
『しかしよく私だとわかったものだ。あれをここに帰らせるような間の抜けた真似はしていないが』
「…あなたの魔力を感じましたから。まさかとは思いましたが」
くくっと喉の奥で彼は嗤った。
『さすがはお優しく賢いセレスト殿だ。他の上層の馬鹿どもはまさかと思うどころか綺麗さっぱり忘れているだろうよ』
彼は淡く青白い月光に似た光を纏っていた。
『―粛清した者のことなどな』
歪んだ笑みを彼は浮かべる。ジークを、上層の神々を嘲っているようにも、彼自身を嗤っているようにも見えた。
『で、君は私を殺しに来たのかセレスト殿。最ももう死んでいる身だがね』
「私たちが憎いですか、ユージィン」
話の流れに敢えて逆らってジークは言った。
「そうなってなお殺したいと思いますか」
『…なるほど。殺しに来たのではなく憐れみに来たのだな。そうやって何人丸め込んできた?その優しい顔と言葉で』
ユージィンの手がゆっくりとジークの首に伸ばされる。しかしその指は彼の体をすり抜けた。
『実体があればこの手でその首へし折ってやりたいところだが…この体ではそれもかなわぬな』
「だから、彼女を使ったんですね」
『ああ』
彼は背後に目をやった。割れた大きなガラスケースと、魔法陣。ホムンクルスの子宮だ。
 エシュシオンにある無数の禁忌の一つに、ホムンクルスがある。作られる存在。主に絶対忠誠を誓うもの。エリュシオンはそれを調和を乱す歪みとみなした。
『禁じられるだけあってあれはいい僕(しもべ)だよ。…私はあれだけは信用できる』


「…違うよ」
ややあってアズールは呟いた。
「君は道具なんかじゃない。道具は心がないけど君には心があるじゃないか」
〈…ええ〉

『無駄なことを考えるな。お前はただこの創造主(わたし)に従えばいいのだ。それがお前の存在理由だ―ボイスレス』

〈…だから私は、出来損ないです〉
「そうじゃなくて!」
アズールはどこか必死に話しかけていた。
「違うんだ。禁忌の存在だって…たとえ認められなくても、君はきちんと『自分』を持ってる命なんだよ!」
ふいに強く吹いた風がボイスレスの目深にかぶったフードを翻した。月下あらわになった彼女の素顔は異形などではなかった。エリュシオンの神々とほとんど変わらない。波打つ長い金髪、深い碧の瞳…ただ、その完全対称の美貌はやはり作られたものだということを感じさせた。彼女は初めて微笑を浮かべた。
〈…あなたが正しいのかもしれません〉
それはとても美しく、しかしこちらが悲しくなるような憂いを帯びた笑みだった。聡明な者の笑みだ。…これとよく似た笑い方をする人をアズールは知っていた。
〈けれど、私にとっては…父の言葉が真実なんです〉


『何か言いたいことでもあるのか?』
じっと佇むボイスレスにユージィンは話しかけた。
『私はお前に声を与える気はない。道具が口を利く必要などないのだからな』
「……」
ほんの僅かな憂いを帯びて、しかしそれは私に逆らうことはなかった。ただ黙して…私の傍にいる。命令を待って。



『あれは私の剣となってお前達を滅ぼすだろう。私がそう作った』
呟いて、ユージィンは己の手に目を落とした。
『…私にそれを見届ける時間はないようだがな。運命とやらは何処までも私が憎いらしい。…後少しでお前達の死に顔を見られたというのに』
ふわり、と蛍のような光が舞う。手を握りしめてもこぼれ落ちる砂粒のようにそれは止まってはくれない。本来あの時世界に還っていたはずのユージィンの魂は人並みならぬ強い思念と魔力によって形を留めていた。彼とこの国が忌んだ赤い翼がもたらした奇跡だったのかもしれない。しかしそれにも限界があった。末端から、魂の形が崩れていく。
『そうだ、私は憎いとも。お前が、お前達が、このエリュシオンが』
何故、差別を孕みながら楽園を騙る。出所も定かでない迷信を振りかざし、禁忌の烙印を押した者を虐げなければ安寧を得ることもできないくせに。
 ユージィンはジークを睨み付けた。
『あなたにはわかるわけがない、この苦しみは。常に光と共にあるあなたには!』
「…そうですね。私には、あなたの苦しみを感じることはできませんから」
ジークはユージィンから目を逸らさなかった。そして静かに、しかしはっきりと呟いた。
「…でも、私もエリュシオンは嫌いですよ」
ユージィンは目を見開いた。この地で最も優遇される、望めば主神よりも権力を振るえる蒼い翼の神がなぜそんなことを言うのか彼には信じられなかった。何より、いつも慈悲深くすべてを赦しているようなこの男から『嫌い』などという言葉が出てきたことが。光あふれる場所だけを、彼は歩いてきたというのに。
「すみません、何もできなくて」
ふっとユージィンは笑った。
『…この上口先だけの同情や通り一遍の建前など言うな。虫酸が走る。』
呟いて、彼は目を伏せた。視界が淡くぼやけてきていた。
『ボイスレス、我が娘よ。私の願いを―』


〈…お父様…〉
伏せた目から一筋の涙が流れ落ちた。
「ボイスレス?」
アズールにはボイスレスの声は聞こえても、ユージィンの思念は伝わらない。わけがわからず問いかけるアズールに応えることはなく、ボイスレスは虚空に手をかざした。冷たく輝く大鎌を再び彼女は握った。
「ボイスレス!?どうして…」
〈…これが〉
フードをかぶりなおしてボイスレスは呟いた。
〈これが私の…存在理由なんです〉
静かに刃が振り上げられる。アズールは叫ぶように言った。
「やめてくれ!そんなの君の意思じゃ…」
月光に刃がきらめく。刹那、力強い羽ばたきの音が荒野に響いた。キィン、と固い音を立てて大鎌と聖剣が交差した。
「…アキス」
「…諦めろ」
「……」
「約束だったな。下がるんだ」
アズールは黙ってうなだれた。

「駄目だと言ってたら夜が明けそうだからな」
「ありがと、アキス」
「けど、もしもあいつがお前に刃を向けたら、もう話し合いは終わりだ」


 もう、止まれない。きっと、最初から。
 けれど、止めたかったんだ。
「ボイスレス!!」
聖剣に切り裂かれる瞬間、彼女は微かに笑っていた。


「私も今のエリュシオンは嫌いですよ」
主の居なくなった塔でジークは呟いた。
「けれどまだ…信じていたいんです。まだ救えると」
大切な人も、ここにはいるから。彼らと生きていきたいから。
「あなたはやはり愚かだと思いますか…?ユージィン…」
虐げられ続けて、魂だけでなお苦しんだ、苦しみ続けた同胞にジークは呼びかけた。
 空には闇の裂け目のような三日月が、頼りなげに光っていた。


〈間違っていたとしても、私にとっては真実なんです〉
 最期まで父を信じて逝った彼女は、彼女なりに幸せだったのかもしれない。
 …だからこれは、僕のエゴだ。
 ボイスレスの体は崩壊してしまったが、後には真っ二つに割られた核が残った。彼女の瞳と同じ碧の結晶。それと彼の残した資料があれば、彼女を作り直すことは簡単だった。禁忌さえも、アズールの権力をもってすればクリアできた。…職権乱用なんてことしたのは後にも先にもこのときぐらいのものだ。嫌いな権力を使ってでもアズールは彼女を蘇らせたかった。
 禁忌の存在、身勝手な主の傀儡。そんなもので終わって欲しくなかった。認められなければ生きられない存在なんかじゃなく、自由な存在として生きて欲しかった。自分の心があるのだから。
「…僕がわかるかい?」
期待と不安を込めて、アズールは呼びかけた。ゆっくりと微笑んで彼女は応えた。
〈…あなたが私のマスターですか?〉
「……っ!」
それは彼女と寸分違わぬ姿をした、彼女と違う存在だった。
〈マ、マスター?〉
涙をこぼすアズールに、困惑気味にそのホムンクルスは呼びかけた。
「…アズールでいいよ。そう呼んで」
目元を拭いながらアズールはそう言った。彼女はもう救えない。…けれどせめて彼女には、彼女の歩めなかった道を歩んでもらおう。彼女の望む道を。それが創った者にできるせめてものことだから。
「君の名前、決めないとね」
いくらなんでも『ボイスレス』と名付けるわけにはいかない。彼女はボイスレスではないのだから。第一、あれでは差別的でかわいそうだ。しばらく考えてアズールは口を開いた。
「…シンシア、でいいかな」



 そして。
 メルフォメネから連絡が入った。3人の蘇生は成功したと。その知らせに、アズールは素直に喜んだ後、小さく苦笑いした。元敵なんだよなぁ、一応。
「でも、これでいいよね」
どんな顔をして会えばいいのか、正直とまどうだろう。けれど、ぜひ彼らに会いに行きたいと思った。彼らはこれから、どんな道を歩むのだろう。

 できることならば、彼らの道が今度こそ幸せでありますように。
 そして…せめて、彼女と主が黄泉で安らかでありますように。





afterward
 はい皆さん、せーのでツッコミを入れましょう。
 もうメルフォメネ編のネタ引っ張るには無理がありすぎるよ!!
 うう…でも最初からこのラスト考えてたので…受験戦争のせいということにしておいてください。
 遅ればせながら、お久しぶりです観月伽耶です。ボイスレス1と2もぜひこの機会に読み返してみてください。書きたいテーマが一杯で飽和気味ですが今の全力を尽くしたつもりです。ボイスレスの末路については説得されて大団円も考えていたのですが…テーマを優先したらアンハッピーエンドになってしまいました。あと、今回の執筆BGMに『きみをつれていく』を選んでしまったせいもあるかと(影響されすぎ)。
 今回、時系列があっちこっちしてるので少し文字色をいじってみました。どうでしょう?
 いつも通り感想ツッコミ待ってます。
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