子猫の消失


 気づいたのは多分、ずいぶんと今更になってからだったろう。
 あの日から、彼女はあまりにもあたりまえに存在したから。
 いつも持っているものほど、いつどこで見失ったか思い出し難いように。
 おそらくはあの長い一日、大陰との決着をつけたあの日。
 あまりにも静かに、先触れも余韻も残さずに。
 私とずっと一緒にいた、臆病でかよわい足手まといの小さな片割れはいなくなっていた。

「キティが、居なくなった」

 シディアの前に紅茶、自分の前にコーヒーのカップを置いて、ザルツも椅子に座る。
「一応確認しておきますが、シディア。『いない』んですね?『代われない』のではなく」
「ああ」
シディアは瞼を下ろす。
 シディア、あるいはキティが表に出てこなくなったことはこれまでにも何度かあった。その原因は、二人の不調のせいだったり、諍いのせいだったりしたが、どちらにせよ 、今表に出ていない方のことを、彼女たちはお互いに把握することができていた。
 しかし、今自分の内側を探っても、もう一人の存在を感じ取ることはできなかった。
 ゆっくりと目を開け、シディアはカップに手をやる。
「あの日…大陰との戦いを終えた日ですね?」
「おそらくは」
流石に察しが良い。問いかけの形でありながら、本人よりよほど確信がありそうだ。
「…どう思う?」
 一口、紅茶に口を付ける。急いで淹れさせたせいか、いつもより紅茶の渋みがきつい気がした。
「『何故』ということですか?」
 ザルツはほとんど考え込むそぶりもなく言葉を継いだ。
「わかりませんね」
 すっぱりと。あまりにもあっさり匙を投げるようなことを言われて、シディアは眉根を寄せる。
 苦笑いしながら、ザルツはコーヒーのカップに手を伸ばした。
「このタイミングなら、大陰との戦いが影響しているのは間違いないでしょう。しかしそれ以上は推測の域を脱せません。結局彼女がどういうものだったのかすら、正確 にはわからないんですから」
 そう言ってザルツはゆっくりと、一口コーヒーを飲んだ。
 仲間達も誤解していたと思うのだが、キティは『いつの間にか存在していた別人格』ではない。二重人格、というのも本当は正確ではないだろう。キティはその性格 、姿ひっくるめて、自然発生と言うにはあまりにも乱暴で偶発的なある事故の産物だ。もう一人の当事者であるザルツも、久しぶりにあの日のことを思い返していた。


 後のことを考えればおあいこなのだが、理不尽にも程がある出来事だったと思う。
「落ちつきなさい、私は…っと!」
 がしゃん、と背後で自分の代わりに何かが壊れる音がした。振り返って確認する余裕はない。
 目覚めたときに多少は混乱するだろうと思ったが、まさかここまで暴れられるとは思わなかった。
 数日前。
 気まぐれとしか言いようのない理由で、ザルツはシディアを拾った。もとい、助けて帰った。傍目にはさらって帰った、に見えなくもなかっただろう。
 極度の消耗でシディアは眠り続け、ようやく意識が戻ったのがついさっき。
 何の説明も紹介も質問もする余地がないまま、攻撃されて今に至る。
 手負いの獣でも、もうちょっと大人しいのではないだろうか。
 なるほど、ああも消耗していた理由の一端が見えた気がする。
「《光は一切を刺し貫く、白く白く、其を刃となし矢となし…」
 今も蒼白な顔色のまま、シディアは大詠唱を組み上げ始める。
 このままではこの数日が水の泡か、下手すればマイナスだ。自分の身も危ないし、ラボも壊されかねないし。
 手荒な方法でも、今すぐ抑えてしまないとまずい。
 ザルツは短く詠唱を紡ぐ。
「《閉ざせ、囲え、戒めよ》!」
 無力化魔法陣が先回りして発動する。一室の床を覆い尽くすほどの陣に、反発する魔力が爆ぜる。ばちん、とスタンガンのような音がして、シディアはその場にく ずおれた。
 万一を考えて、こういうものを準備しておいて正解だった。さっきの先回りでさえ、ギリギリのところだったのだ。精霊は人間より遙かに魔術的に優れた種とはいえ、あ の展開の早さは反則だ、と思えてしまう。
 ザルツは息をつく。
 うずくまったままのシディアに目を合わせるように膝をついて、
「大丈夫ですか、手荒い方法を採ってしまいました…が」
 ザルツは思わず言葉を失う。
 目の前でシディアはみるみるうちに姿を変えていった。幼く、幼く、見た目で10歳分は退行した少女に。
「……え?」
 自分がさっき仕掛けたのは、無力化の魔術だ。それも対象をなるべく傷つけないように、力を奪う種類のものではなく、緩衝し、力を内側に押さえ込むもの。一時 的な封印のようなものだが…こんな効果を現すようなものではない。
 精霊は元々魔術的な存在だから、そこに更に魔術を重ねたせいで、思いもよらない結果を現した?
 いやまさか。そんなはずはない、と思うのだが。
 水面下で大混乱しながら、どこかに説明と答えがないかとザルツは縮みきった少女の顔を覗き込む。
 少女はぱちりと目を開き、ザルツを見て、自分の手に視線を下ろして、もう一度ザルツを見て、
「え…??」
先ほどまでの勢いはどこへやら、おろおろと辺りに目を泳がせた。


「…あのときは本当にもうどうしようかと」
「それはこっちの話だ」
それはそうでしょうけど、とザルツは苦笑いする。
 封印の二重がけになっていた、と原因らしきものがわかるまでにさえかなりな時間を要したものだった。
 キティ、と仮に名付けられた少女は、二つの封印術が合わさっておかしなベクトルを向いた結果生み出されたエラー、不用意な薬の飲み合わせによる副作用のよ うなものだった。
「案外、ようやくあのときの副作用が解けた、ということかもしれませんね」
 弱体化の呪いが長い長い間かかっていて、それがやっと解けた。状態的にはそれが一番正確なところかもしれない。
 結局はっきりしたところは何もわからないまま。
 しかし現実として、『キティ』は存在した。
 戦場でははっきり言ってお荷物、ちまちまと救護役に走り回るだけのひ弱な少女。『シディア』が活躍する前の枷のような状態。
 呉越同舟どころではない、てんでばらばらな方向を向いて、お互い協調する気のない面々の間で、戦いが終わっても殺伐とした空気におろおろし。
 次々と新顔が訪れる黒川で、たくさんの人と出会い。
 言葉を交わし。
 何年もの間、シディアの半身として存在した。
 半身として以上にもう、キティという少女がもう一人存在していた。
 本質がエラーだろうが何だろうが、キティは一つの『個』だった。
 それを懐かしみ、ザルツは呟く。
「…どうあれ。挨拶もできないままにいなくなっちゃったのは少し残念ですね」
「…ああ、」
 キティがいなくなって、何故とかなんとかより何より、
「そうだな、少し」
 寂しかったのかもしれない。少しだけ。
 やっと元に戻っただけだというのに。
 もうだいぶぬるくなりかかった紅茶を口に運ぶ。
 にっと笑って、ザルツは口を開いた。
「何なら、当時の再現でもやってみましょうか?役者は揃ってますし。うまくいけばもう一回呼び出せるかもしれません」
「やめろ。わざわざもう一回封印くらうとかごめんだ」
 即答。
 封印を解くならともかく、もう一回受けるなんて論外だ。
 キティが居なくなったのはともかく、戦力的にはやっと少しマトモになったところだ。
 自分の目的を忘れたわけではない。
 あの日のことを忘れたわけではない。
「まぁ、そう言うとは思いましたが」
 あからさまに険しい表情のシディアに、ザルツは小さくため息をつく。
 そして、真面目な声で口を開いた。

「…主治医として『どうなるか』と考えれば。キティの消失はあまり良い傾向ではありません。」

 一つには、これは相当大きな変化をもたらす力がかかったということが考えられるため。キティの存在はもう安定していたと言っていい。それが消失するというのは、よ ほどの力が作用した結果である可能性がある。大陰との戦闘が過大な負担で、キティの消失以外にもどこか障害を残している可能性がある。
 もう一つは、キティという抑止、制限がなくなったことで、これからはシディアが思うままに無茶をできるようになってしまうということ。警報装置かブレーキを一つ失くした ようなものだ。封印はまだ残っているが、もうシディアが自分の意志でどうとでも破れるレベルだ。
「今の時点で何か他に変化はありませんか?どこか痛んだりだとか、疲れやすくなったりだとか」
「いや、特には」
大陰との戦いの傷も疲れも、もうとっくに治しきっている。その後何もなかったから、キティが居なくなったのに気づくのも遅くなったぐらいだ。
 そう言っても、まだザルツは硬い顔をして言葉を重ねる。
「今はまだなくとも、これから起こることも考えられます。何か変化があった場合は早めに、」
「ザルツ」
うんざりとした表情で、シディアはザルツの話を遮った。
「大丈夫だ、何ともないから」
「ですから、シディア…」
「この件になると心配性過ぎるぞ、お前」
「…そうやってあなたが気にしなさすぎるからですよ」
コーヒーで喉を湿して、ザルツはため息をつく。
 正直なところとしては、今の制限でもまだ甘すぎる。できるものなら何年か、完全封印して絶対安静の回復にあててしまいたいぐらいだ。さすがにそれをやろうとした ら、それこそ当時の再現になってしまうだろうが。そして今度は確実にシディアの方が早いだろう。ああいう不意打ちは、よほどの馬鹿相手でない限り一発勝負で終 わりだ。
 軽く頭を振って、非現実的な考えを追いやる。ことさら芝居がかった調子で、ザルツは笑った。
「しょうがない人ですねぇ、それじゃ私の方がまたキリキリ研究がんばるしかないじゃないですか。まったく人使いの荒い」
「…別に、」
「「頼んでもない」?」
片や若干ばつの悪そうな顔をして、片や苦笑い。その顔を真っ向から見返して、シディアは言葉を投げる。
「…そうだな。どうせやってくれるんなら期待してよう。ぜひ封印なしで大丈夫なようになるぐらい」
「はいはい、頑張ります。」
かたん、と小さく音を立ててザルツは席を立つ。
「けどとりあえずは、お茶をもう一杯いかがです?」
見れば、自分のカップには冷えた紅茶がもう半口分ぐらい残っているだけだった。それを喉に流しこむ。
「じゃあ、お願い」
「はい」
 そういえば。たとえば紅茶の好みさえ、キティは違う舌をしているようだった。時にはささやかな精神内喧嘩をしたことがあるぐらいに。
 もう邪魔をされることはない、というのは。
 穏やかなような、拍子抜けなような気がした。





afterwords
 そして『変調』へ続く、と。
 正しかったのはザルツの方なわけですが、そんなところで当たっても嬉しくはないでしょうね。幕間の軽口のネタにはなるかもしれませんが。
 拾った、もとい助けた、いやむしろさらった、のくだりはまた別の話で今度書きます。しかし、分類はどこにしよう…完全に過去モノになるのは間違いないけど、カナン編に も北欧編にもましてや箱庭編にもカテゴライズできん(苦笑)。強いて言うならカナン編と北欧編の合流点なんだよなぁ。
 それにしても、TRPGの新作久しぶりだ…(苦笑)

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