むかしむかし。
 ある時代、ある王国に一人の姫君がお生まれになりました。
 長年待ち望んだ末の子供なので、王様もお妃様も、とてもとてもお喜びになられました。
 姫君は生まれながらにしてとても可愛らしく、蜂蜜色のお髪はふわふわと、肌は絹のように滑らかで象牙のように白く、頬は薔薇色、唇は紅を差したように赤く、瞳は最上級のエメラルドのよう、声は小鳥が囀るようで、精霊も姫君を祝福したといわれております。
 姫君は民を愛し、民もまた姫君を愛しました。
 しかし、姫君が16の誕生日を迎えて間もない頃、悪い魔法使いが姫に呪いをかけてしまいました。
 以来、深く茨に閉ざされた城の奥で、姫君は眠り続けております。
 姫を愛した王様、お妃様、下男や端女までも、目覚めたとき姫君が寂しくないよう共に。
 いつか、姫君を心から愛する、心清く正しき若者が城を訪れ、誓いの口づけを落とすまで。
 ああ、しかしどれほど待ったことでしょう。
 数百年、いえもう千年が経ちました―

【こよなく愛されし姫君】


 かつん、かつんと響く足音を聞きながら、指を手折り、眠れる城で彼の他で唯一動き続ける古びた時計を見上げる。足音が近づき、扉の前でしばしためらうように止まったのを聞いて、彼はすっと手を上げた。途端、手も触れないのに大きな音を立てて開いた扉に、足音の主は瞠目する。
 まだ若い、少年の面差しが残ると言ってもいい青年だ。硬質に光を弾く、姫のそれとは印象が異なる、太陽の光のような金髪。驚きに揺れたサファイアのような瞳は、すぐに強い意志の光を取り戻し、目の前の男を見据える。
「お前が姫に呪いをかけた、悪しき魔法使いか」
疑問というより、確認。言葉と共に、青年は白銀の切っ先を向ける。
 豪奢な天幕付きの寝台。姫が眠ると思われる、その前に佇む男は剣を向けられても特にうろたえもせず、無表情に青年を見返していた。男は青年とは対照的な、光を吸い込むような烏色の髪と、底の見えない黒曜石のような瞳で、彼の容姿に、あるいは悪しき魔法使いに似つかわしくない、ややあせた白いローブを纏っていた。
「青年、名前は?」
魔法使いは、質問には答えず問い返した。青年はやや眉間にしわを寄せたが、答えないのも不作法と、高らかに名乗りを上げる。
「私は八代ストラウス家当主、レオナードが第二子、クリストファー!罪無き姫を呪った非道な魔術師よ、私と勝負しろ!」
静寂が落ちる。一方ではぴりぴりとした、しかしもう一方は凪いだ湖のような。
「ストラウス…伯爵の家だったか?」
「…子爵だ」
「しかも次男坊か。…王家とまではいかなくても、せめて侯爵位ぐらいは欲しかったところなのだが。」
魔法使いは大きくため息を吐いた。クリストファーはかっと頬を朱に染める。
「私では不足だと言うか!」
「加えて少々気が短いか。その若さでは仕方ないとはいえ」
クリストファーがいくら戦意をあらわにしようが、声を荒げようが魔法使いは飄々としている。見かけはクリストファーと10も違わぬであろう青年だが、伝説の通りなら千を越える齢の老獪さか。まったく応じないのがかえって不審で、クリストファーは剣を構えたきり仕掛けられずにいた。再びの静寂をおもむろに破ったのは、何かしら思案している風だった魔術師だった。
「まぁ、良しとしよう。シルフィールは、お前に託す」
「何!?」
言うなりさっさと道を空けた魔法使いに、クリストファーは唖然としそうになりながらも言葉を叩きつける。
「臆したか、悪しき魔法使い!」
「臆したと言うかな、もう飽いた」
魔法使いから返る言葉はどこまでも静かだ。
「千と五年と三ヶ月、12日と8時間余りだ。その時計も少々耄碌してきたろうから多少誤差があるかもしれんが。それほどの間、あの茨を越えられる者は誰一人として居なかった。結界を抜けられる条件を甘くしてやろうかと考え始めていた頃だ。血筋も、申し分ないとは言い難いが不足ではない」
「……」
いぶかしみ、警戒しながらもクリストファーは魔法使いとすれ違う。
 豪奢な寝台には、はたして姫が横たわっていた。
 目蓋は下ろされ、頬は白く蝋人形のよう。しかし蜂蜜色の髪は豊かで美しいまま、ごくかすかに胸は上下し、頬に触れれば柔らかくほのかに熱が返ってきた。
 姫の傍らに膝をついたクリストファーに、魔法使いは話しかける。
「最後に問おう。お前は姫を愛し、どんな夢より幸せにすると誓えるか?」
振り向いた瞳には真摯でまっすぐな光が宿っていた。
「誓うとも。この剣と魂にかけて、姫を生涯愛し、幸せにすると」
ふとちょっとした意趣返しに、勝ち気な笑みを浮かべてクリストファーはつけ加える。
「少なくとも、悪しき魔法使いにとらわれた悪夢よりはずっと幸せにできるとも」
それまで終始無表情だった魔法使いは、淡く苦笑を浮かべた。
「…違いない」
 そしてクリストファーは、姫に誓いの口づけをした。
 蜂蜜色の長い睫毛がふるえ、頬に赤みが差し、小さくため息のような吐息を漏らして、眠り姫はゆっくりと目を開けた。
「シルフィール姫」
「…だぁれ?」
まだ少しぼんやりとした深緑の瞳が、クリストファーを映す。
「私は、クリストファー・ストラウスと申します」
柔らかく、クリストファーは微笑みかけた。
「もう心配はいりませんよ、姫。悪しき魔法使いの呪いは私が打ち払いましたから」
階下でも、人の動く気配がし始めた。姫と共に眠り続けていた、王や妃、使用人たちも目を覚ましたのだ。
 そして気がつけば、あの魔法使いは姿をくらまし、その行方は杳として知ることができなかった。

* * *

 眠りから覚めて、最も大変だったのは庭師かもしれない。
 呪いは解け、人を襲うことはなくなっても太く刺々しい茨の蔓は城にからみつきっぱなしで、まずそれを取り払うのに庭師たちは大忙しになった。
 茨を全部片付けたら、今度は荒れ放題の庭に、姫の大好きな花々を。
 明るい陽の差す城の庭では、今日も慌ただしく人が行き交っていた。
 よく晴れた青空に、虹色の珠が舞う。
「こちらにおいででしたか、姫」
「あら、クリス!」
振り返り、シルフィールは咥えたストローに息を吹き込んだ。今度は部屋の中に、いくつもの虹色の珠が踊る。クリストファーは苦笑いした。
「…姫、部屋の中に飛ばしてはいけませんと言ってるでしょう」
そう諫めるのも、もう何度目か。半ばあきらめ気味に、それでも生真面目に諭すクリストファーに、まったくこたえていない様子のシルフィールはくすくすと笑う。
「ほら、飛ばすのはいいですけど、危ないですから窓枠に座るのはおやめください」
目の前に漂ってきた珠を、軽く手で追いやろうとすれば、甲に触れてぱちんと弾ける。聞き分けのない姫君を、クリストファーは軽々と抱き上げ窓辺の椅子に下ろした。ストローの先を石鹸水につけ、ふー、と今度は外へと飛ばす。珠は日の光を透かし、風に乗って高く舞った。それを何となく目で追いかけ、クリストファーは姫に話しかけた。
「本当に姫は、しゃぼん玉遊びがお気に入りですね」
「ええ、大好きよ」
かちゃかちゃと音を立て、シルフィールはストローで石鹸水をかき回す。水面に立つ泡も虹色だ。
「どうしてこんな素敵な遊び、千年前は誰も思いつかなかったのかしら。ストローも石鹸水も、もちろんコップも千年前からあったのに。…あ、それとも私が知らなかっただけかしらね。私、世間知らずだから」
そういえば、と軽く手を叩き、シルフィールはポーチから大振りの飴玉を取り出す。
「クリスはこれ知ってる?ガム風船っていうの。下町で今大流行」
一つをクリストファーに渡し、もう一つを自分の口に入れ。何回か噛んだ後、しゃぼん玉のようにふくらませるその姿は、まるで下町の娘のようで。本当は行儀が悪いと叱らなければならないところなのに、苦笑いしてしまうのはあまりにシルフィールが無邪気で楽しそうだからだ。
 千年もの眠りから覚めて。王家はとうに形骸化し、かつての城下町は数代前からストラウス家の領地だ。城は壊そうとも呪いで近づけず、何より民も領主も、悲劇の王家を少なからず不憫に思っていたからこれまで保たれていたけれど、かつての姫も王さえもその地位を失いただの民草として生きなければならないところだった。
『眠りにつく前、我らは民を捨て地位も捨てたも同然。永久に目覚めぬかもしれない眠りから醒めただけでも僥倖な事、この上多くは望まぬよ』
そう、かつての王は静かにあるがままの運命を受け入れようとした。この上ない権力と富を一夜にして失ったようなものなのにと、その潔さに人々は驚かされた。現在、王家とその従者たちはストラウス家の温情と敬意により、かつての王城に住むことを許されている立場だ。それもいつ覆るかわからない。クリストファーが現在の当主でも、まして王でもないのだから。
 何もかもが千年前とは変わってしまったのに。
『不謹慎だとお父様には怒られるかもしれないけど、私こうなってよかったわ。』
シルフィールは何もかもが目新しい千年後の世界のひとつひとつに、目を輝かせる。
『千年前、王女だったときはこんな風な自由はなかった。みんなが私を守ろうとしていて、城の奥深くに閉じこめられていたようなものだもの』
そして、クリストファーに笑いかけて言った。
『ありがとうクリス、私とても幸せよ』
 シルフィールは窓から外を見やる。城の美しい庭、その先に広がる町、世界を。
「城下にはもっともっとたくさんの面白いものがあるんでしょうね。」
ねぇクリス、とシルフィールは小首をかわいらしくかしげてみせる。また始まった、と嘆息してクリスは先回りして言ってしまう。
「駄目です」
「もう、まだ何も言ってないじゃない」
「城下は楽しいものばかりではありませんよ」
危険なもの、汚いもの、悲惨なもの。面白おかしく楽しいものよりもずっとたくさんの暗いものがあふれている。それが姫の身に危害を加えたら、それより姫が顔を曇らせてしまったらと思うと、クリスはそのわがままだけは聞けないといつもかたくなに首を横に振った。シルフィールはふくれっ面をしてみせた。
「あれも駄目、これも駄目。口うるさくて頑固で、クリスって昔のお父様みたいだわ」
「私は姫のためを思って…」
「そう、それもよ。『姫』とか敬語とかもやめてって言ってるのに」
びしっと指を突きつけられて、クリストファーは口ごもる。
「姫」
「ち・が・う」
「…シルフィール」
「もう一声」
「…シルフィ」
「よろしい」
「あまり無茶を言わないでください」
心底困り果てている様子のクリストファーに、くすくすとシルフィールは笑う。
「婚礼の時には、馬車を城下に出しましょう。それで許してはくれませんか?」
「うーん…そういうのとはちょっと違うんだけど、とりあえず勘弁してあげるわ」

 姫のために、国一番の仕立て屋は極上の布地で、白い白い、天使の和毛を織ったような美しいドレスを作りました。
 千年の眠りから醒めた姫と心正しき騎士を乗せて、馬車が城下を行きます。
 道には姫を一目見ようとする人々が並び、まるで国中の人が集まってしまったようでした。
 姫は民に手を振りながら、あれは何、それは何、と騎士に尋ねます。騎士はその一つ一つに丁寧に答えてあげました。
 国一番の教会、神の御前で、二人は愛を誓います。そして、触れるばかりの口づけを。
 鐘が国中に響き渡ります、高く、遠く。
 城の大広間には祝いの言葉と貴族たちが集まり、盛大なパーティーの幕が開きました。
 姫を慕い、共に眠りについていた、国一番の楽団が舞踏曲を奏でます。
 それはひどくクラシックなものでしたが、誰もそんなことは気にしませんでした。
 なぜなら、姫と騎士がとてもとても幸せそうだったからです。
 くるくると、騎士を先導するように姫は踊ります。
 あるとき、舞踏曲は唐突に途切れました。
 それは白い白い、天使の羽根のようなドレスに、赤薔薇を飾ったようでした。
 血を吐き倒れる姫を、騎士は呆然と抱き留めました。

* * *

 奇しくもそれは、姫に初めて出会ったときとよく似ていた。
 白く清められた寝台で、シルフィールは眠っている。しかし悪い魔法使いはここにはいない。それなのに、眠るシルフィールを見るたびに、クリストファーはまた姫は長い長い眠りについてしまったのではないか、あるいは二度と醒めない眠りについてしまったのではないかという焦燥に駆られる。それを知っているように、今は昼となく夜となく眠るシルフィールは、クリストファーが来ると不思議と目を覚ます。
「あら、こんにちは、クリス」
「調子はどうですか、シルフィ」
いつものようにシルフィールは花がほころぶような笑みを浮かべ、ただでさえ笑うのが下手だと言われる自分はちゃんと笑い返せているのだろうかとクリストファーは心配になる。
「そんな大げさにするほど悪くはないと思うわ。それなのにあのお医者様ったらとびきり苦い薬を飲ませるのよ。それに絶対安静ですって」
ベットに寝転がりきりじゃ、よけい具合が悪くなるわとシルフィールは口をとがらせる。
『姫のご病気は、他に例がございません』
『現在、医師陣を挙げてその治療法を探しておりますが、今は一つ一つの症状を和らげることぐらいしか』
『王妃に続いて王も伏せられました』
『原因がわからぬ以上、あまりストラウス様も姫のお側にはおいでにならない方が…』
「ねぇ、今お庭にはどんな花が咲いてる?」
「え?ええと…」
はっと我に返って、クリストファーは窓の外に目をやる。
「木に、小さな黄色い花がたくさん咲いてますよ」
「ああ、それは金木犀だわ。とてもいい香りがするのよ」
窓を開けてくれる?とシルフィールは頼んだ。クリストファーが言われたとおりにすると、確かに甘い芳香が、思ったより冷たい風に乗って入ってきた。
「やっぱり閉めてちょうだい、『体に悪い』わよね」
困り顔でクリストファーが口を開く前に、シルフィールは聞き分けよく言った。クリストファーは窓を閉め、その代わりにシルフィールを抱き上げて窓の近くに連れて行った。
「ありがとう、クリス」
「いえ、このくらいは」
窓の外を見やって、シルフィールは首をかしげる。
「本当に金木犀だけね。秋の庭は寂しくなりがちだからって、いつもヨハンは工夫を自慢してたのに」
「それは、」
それは、しばらく前に彼女の庭師も伏せってしまったから。
「…怠慢ですね。叱っておきましょう」
「ふふ、がつんとお願いね」

 騎士は、国中の名医を呼び集めました。それでも足らぬと、東の国からも、西の国からも、北の国からも、南の国からも、姫の病を治せる医者を探し求めました。
 たくさんの人が、姫のためにありとあらゆる手を尽くしました。
 それなのに、姫の病は悪くなるばかり。
 ある日、誰かが囁き始めました。
『また悪い魔法使いが呪いをかけたのではないでしょうか』

 ああ、それならまた私がその呪いを解けたなら。
 すぐぬるくなってしまう濡れタオルを、クリストファーが手ずから替えてやる。そっと触れればこんなに熱いのに、白く血の巡りの良くない頬。クリストファーの手に自分の手を重ね、シルフィールは目を細める。
「手がすごく冷えてるわよ、クリス。こんなこと侍女にさせればいいのに。あなたも風邪をひいてしまうわ」
「大丈夫ですよ、こう見えて昔から丈夫な方なんです」
「うらやましいわ。私なんて、子供の頃からしょっちゅう風邪をひいて。でもあんな苦い薬どうしても好きになんてなれなくって、治りかかるとお医者様から逃げ回って、また風邪をぶりかえさせたりなんてしたことも…」
話の途中でシルフィールが咳き込む。呼吸が少しでも楽になるようにと、半身を起こして支えてやっても、なかなか止まらない。ひときわ大きな咳と共に、口を覆った細い指の間から赤い液体が滴り落ちる。さっと顔色を変え、医者を呼びに走ろうとしたクリストファーの袖をシルフィールは掴んだ。
「…だいじょうぶ。もう治まったから」
それよりもここにいて、とシルフィールは訴える。しばらくしたらまた医者が様子を見に来る頃合いでもあった。せめてその唇と手のひらから血をぬぐって、クリストファーはシルフィールを寝台に横たえてやる。シルフィールは大きく息をついて、目を伏せた。最近では、『疲れたでしょう、お休みなさい』と諭さなくてもそうするようになった聞き分けの良すぎる姫。以前は退屈だのなんだのと言って、寝台を抜け出してクリストファーたちを大騒ぎさせたりもしたのに。
『どうしても原因がわかりません、ただ姫の臓腑の一つ一つがひどく弱っていっているのです』
『症状を抑えるのにも限界があります。これ以上強い薬を使っては、かえって姫を害してしまいます』
『もはや我らには…』
「ねぇ、クリス」
 いつのまにかまた開いていた、エメラルド色の目がにこりと笑う。
「風邪が治ったら、また城下町に連れて行って」
「え?」
「今度は馬車じゃなくて、歩いて町を回るの。姫と騎士ってばれたら面倒だから、町の人と同じような服を着ていって」
「え…ええ」
こんなに長く続く、血を吐くような病が風邪なんかじゃないとは、シルフィールももう気づいているはずなのに。困惑気味にクリストファーは相づちを打つ。
「侍女のマーシャから聞いたのだけど、アンジェリカという店の焼き菓子がおいしいんですって。特に、ガナッシュが絶品だそうよ」
「…明日にでも、買って持ってきましょうか?」
「そうね、ホールで買って、午後のお茶の時間にみんなで食べましょう」
シルフィールはここ数日、スープしか喉を通らなくなっていたけれど。
「そうだ、どうせなら大パーティーを開きましょう。ホールから庭まで使って、貴族の方たちだけじゃなくって、町の人たちも誘って」
「…それは、きっととても喜びますよ」
「ふふ、料理長は悲鳴を上げそうだけどね」
「それなら町の食物屋のコックたちにも、手伝ってもらうのはどうでしょう」
「いいわね!きっと面白い料理をたくさん作ってくれるわ。」
「ええ」
「それから、ダンスの続きを踊りましょう。ああ、でもどうせなら今度は楽士に今の舞踏曲を覚えてもらって、クリスがリードして」
「大変ですね、パーティーまでに頑張らないと」
シルフィールが笑うなら、本当にそんな日が来るような気がした。シルフィールの言うことは相変わらず無茶ばかりだったが、クリストファーは一言も駄目とは言わなかった。
「他には、他には何かありませんか」
どんなことでも、駄目とは言わないから。無理でも叶えてあげるから。
「…ああそうだ、きっとみんながシルフィの風邪が治ったお見舞いを持ってきますよ。シルフィはどんなものがいいですか」
「うーん、そうねぇ…」
「花でも、ドレスでも、菓子でも、宝石でも。町の子が遊ぶような、絡繰り玩具や人形やぬいぐるみでも。異国の珍しい動物や、寓話集でも。シルフィのためならきっと、みんな何だって…」
いつになく饒舌にクリストファーは言葉を重ねる。しかしシルフィールの楽しい計画と違って、どこか上滑りして空回っているような気がした。シルフィールは、クリストファーの頬に手を伸ばす。その指がゆっくりと目元をぬぐって、クリストファーはいつしか自分が涙を流していたことに気がついた。シルフィールは穏やかに、きれいにきれいに微笑んだ。
「ありがとうクリス、私とても幸せよ」

* * *

 それは、まるで眠っているような美しい姿でした。
 肌は象牙のように白く、唇はほのかに赤く。しかしあの日と違って頬に触れても冷たいばかりで、その体は微動だにしません。
 姫を慕うように、姫と共に目覚めた千年前の人々はまた次々と眠りについていきました。今度はもう二度と目覚めぬ冷たい眠りに。
 鐘が国中に響き渡ります、低く、遠く。
 たくさんのたくさんの人が姫の死を悼み、悲しみました。
 民を愛し、民に愛された姫君でしたので、最後に一目別れを告げようと、長い長い列を作ります。
 こよなく姫を愛した城の人々の中で、騎士だけが残りました。

 長かった葬送の列も途切れ、聖堂にいるのはもうクリストファーとシルフィールだけだった。冬だというのに、シルフィールの棺とその周りには花があふれて、まるで春の庭のようだった。白い花を、ステンドグラス越しの光が虹色に彩っている。シルフィールならきっと、この光景の美しさに目を輝かせただろうに。
 口づけを落としても、奇跡は起こらない。
 人々が口々に悲しみを表し、涙している間クリストファーは呆然とその列をシルフィールの傍らで見送っていた。
 ふいに、聖堂の扉が開く音がした。
「まだ、姫に別れを言ってもいいだろうか」
「ええ、」
かまいませんよ、と言いかけてクリストファーは顔を上げ。瞬間、冷え切っていた血が沸騰したような気がした。そこに立っていたのは烏色の髪、今日は墨色の衣を纏った魔法使いだった。
「貴様っ…!」
クリストファーは感情のままに、魔法使いに掴みかかった。
「貴様、よくこの場に来れたものだな…姫を呪っておきながら」
「…呪ってなどいない」
この期に及んで何を言う、とクリストファーは眉を跳ね上げる。されるがままにしながら、魔法使いは静かに言葉を綴る。
「しかしシルフィールを死なせた責は私にもある、それでお前の気が済むなら殺すのもいいだろう」
悲痛な色を宿した黒曜石の瞳にとまどい、クリストファーは手を離した。
「…お前はいったい何なんだ、何を考えてる」
クリストファーとすれ違いながら、魔法使いは自嘲的に笑って吐き捨てた。
「呪いを解けなかった無能な魔術師さ」
魔法使いは、シルフィールの棺に一輪の花を手向けた。それは、姫の髪の色に似た、金色の花弁の百合だった。以前交わした話題が頭をよぎる。
『ヨハンの作った百合は、今はもうないんですって。金色の花びらの、私の名前の花だったのよ』
「『シルフィール』?」
「…西の果ての、似た花だ。そこでは群生している。シルフィールの喜んだ、あの花ではないが」
魔法使いはクリストファーの方に向き直る。
「知りたいのはそんなことじゃないだろう?」
「…お前は、何者なんだ?お前の呪いじゃないならあの病はいったい何なんだ…なぜ、私は平気なんだ」
いっそ、王や王妃や侍従たちのように、一緒に行けたなら良かったのに。
「…長くなるが、一つづつ話すしかあるまいな。私はキリエ、王宮の呪術医だ」
『キリエはいないのね』
そう一度だけシルフィールが呟いたことがあった。求憐唱〈キリエ〉なんて、変わった名だと思ったのをかすかに覚えている。加えて、古い言葉で主を表す名前なんて、なんて不遜なとも。
「千年前、国に流行病が蔓延した。最初は軽い風邪のようなのに、やがて血を吐き、臓腑が衰弱して、高熱を発し、死に至る病だ。」
新しい病だった。症状を和らげることすらままならず、ばたばたと民が死んでいった。王族は、特に姫は城の奥深くにかくまわれ、どうにかして病の魔手から守ろうと皆が躍起になったが、ある日ついに発病した。
「私はシルフィールを死なせたくなかった、しかし時間がなかった。だから私は、シルフィールを仮死の眠りにつかせた。」
彼女が寂しくないように、王も、王妃も、彼女が慕い彼女を慕う城の人々をもろともに封じて。不老の魔術師であるキリエには無限に等しい時間があった。何十年かかろうともシルフィールを救う手だてを見つけるつもりだった。あるいは、時の流れるうちに、外のもっと有能な医者が、この病を克服する術を見つけるかもしれない。
「…しかし、100年経っても私は病を治す術を見つけ出せず、200年余り経った頃、外では病自体が治療法の見つかる前に絶えてしまった」
キリエは強く手を握りしめる。思えば千年前、病が猛威をふるう一方で、病人の傍近くで看病にあたったりしながらもいっこうに病にかからない者がいた。200年の時を経て、あの病にかかる体質の血脈はすべて病魔に食い尽くされ、病に耐えられる人間だけが生き残ったのか。世界はそれでもいいかもしれない、けれどもそれが摂理だというならば、シルフィールは死ぬしかないと言われたも同然ではないか。
「…300年、万策は尽きた。薬や治療を試そうにも新たな患者もいない、やむなく起こしたシルフィールと面識の薄かった者ももういなくなった。後は誰も、死なせたらシルフィールが悲しむ者ばかりだ。私は、目覚めさせたシルフィールを託せる相手を探し始めた。そして千と五年余り、お前がシルフィールの元に辿り着いた。」
「…待て」
想像とあまりに違う内容に、戸惑いながらもクリストファーは聞きとがめたことを問いただした。
「お前は、目覚めさせたらシルフィが病で死ぬしかないとわかっていたのか!?それなのに目覚めさせたのか。救う術もないのに!」
目覚めて、シルフィールが生きられたのはわずか数ヶ月。その大半は病の床の上だ。シルフィールは目覚めるたび、笑って、明るく話してくれたが、苦しくなかったはずはないのに。
「私とて、死なせたくなどなかったさ!」
初めてキリエが声を荒げる。
「理論としては永遠にその状態を保てる仮死の眠りでも、本当に永遠かなど永遠を生きた者しかわからない。眠りのうちに、いつしか命を落とし、冷たくなって、腐敗していくのではないかと、不安と焦燥を抱えながら送ったあの千年がお前にわかるか!」
動くものは自分と時計しかない城。時を止め、美しいままの、しかし笑いもしないシルフィール。ただひたすらに、時間は過ぎていき。
「私も迷った。苦しめて死なせるぐらいなら、シルフィールはいっそのことこのまま眠り続けていた方がいいのだろうかと。だが、お前は誓っただろう」
「あ…」
『お前は姫を愛し、どんな夢より幸せにすると誓えるか?』
『誓うとも。この剣と魂にかけて、姫を生涯愛し、幸せにすると。少なくとも、悪しき魔法使いにとらわれた悪夢よりはずっと幸せにできる』
 迷いもせずに、自分はそう言い放った。何も知らずに。本当は、どうすれば良かったのだろうか。あれは間違いではなかったのか?
 しかし、脳裏に浮かぶシルフィールは笑っている。
『ありがとうクリス、私とても幸せよ』
 人をこよなく愛し、人にこよなく愛された姫君。
 もしもあの言葉に優しい嘘が含まれていたとしても、救われる気がしてしまう自分は、なんと浅ましいのだろうか。
「シルフィは、笑っていました」
「そうか」
「この世界で目覚めて良かったと、幸せだと」
「…そうか」
「でも、私は、もっと、もっと彼女にしてあげられることがあったはずなのに…っ!」
クリストファーは泣き崩れる。シルフィールは笑っていたけれど、叶えられなかった約束が多すぎて、それはもう永遠に叶えられない。知っていたならば叶えられた望みもあったはずなのに。
「…きっと、本当にシルフィールは幸せだったと思う」
こんなにも強く愛してくれる人がいたならば。
「ありがとう、クリストファー・ストラウス」
俯いたまま涙声で、『お前に言われてもしょうがない』と拗ねた子供のような口調でクリストファーは答えた。

* * *

「最後に聞きたいんだが、お前は本当に不老不死なのか?」
城下町の外れ、斜陽を受けてキリエは振り返る。
「ああ、これまでのところは。千年以上この姿のままなんだ、この先もおそらくは」
けれど、二度同じ術は成功しなかった。そうキリエは嘆じる。もしもそうできていたなら、シルフィールを永遠に生かすこともできただろうに。しかしクリストファーは首を振る。きっとシルフィールはそれでは幸せにはなれなかった。いくらなんでも親しい人すべてを不老不死にすることはできまい。無限回愛した人を見送らせるのは、優しい彼女にとってこの上なく残酷なことだろう。
「そんなことより、それならお前は死ぬな。」
クリストファーは剣先の代わりに言葉を突きつける。
「遙か遠くまで地をさすらって、時の果てまでずっと生き続けろ。死んでシルフィの元に行くなんて許さない。…私は、お前を許してはいない」
キリエは苦笑いする。
「その剣で切り裂かれた方がよほど楽だな」
「だろう。だから、そんな優しいことはしてやらない。お前は、償いに生き続けろ。シルフィにも私にも見られぬものを見届けろ。」
断罪者と羨望者の入り交じった目で、クリストファーはキリエを見据えた。
「永遠かどうかは私にもまだわからない。そのうち死んでしまった場合は?」
「…シルフィに、それまで見てきたことを話してあげてくれ。きっと喜んで、お前を許してくれるだろうさ」
許すも何も、最初からあの優しい姫は魔術師を憎んでいなかったかもしれないくらいだが。
 クリストファーは踵を返す。その背にキリエは声をかけた。
「お前こそ、後を追おうなどと考えるなよ」
「わかっている」
クリストファーは小さく笑う。
「お前の狙い通り、シルフィの愛した民と町を私は守るよ。ストラウス子爵として、不老不死の魔術師なんて得体の知れないものにはできないことをしてみせる」

 祈りの鐘が響きます。
 こよなく姫を愛した騎士と魔法使いは、互いに背を向け歩き始めました。
 心正しき騎士は民を愛し、そのために力を尽くしました。
 魔法使いの行方はやはり杳として知れず、しかし毎年姫の命日にはその墓に金色の百合が手向けられました。
 そして長い長い時が過ぎて、姫と騎士と魔法使いが再び巡り会えたのかは、また別の物語。


Thank you for your reading....
2005.11.21
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